夜の帳が下りて、久しい。
 男が見つめる窓の先は、暗闇そのものだった。街の外観を包み込んで、そのままを眠らせたような。人々は眠り、やがて来る明日へと英気を養い、日々の糧にしていくのだろう。
 なんて、小さい。
 だけど、なんて掛け替えのないもの。その一つ一つが人の営みを作り、生活となる。日常として形作る。当たり前なものとしてそこにあるが、それは何よりも掛け替えのない―――。


 それを、人々の日常を守るのが、男の使命であった。

 男は幾多の戦場を駆け抜け、敵兵を、魔の者を打ち倒す。誰よりも勇猛に、誰よりも慎重に、そして誰よりも冷徹に。一人の戦士として雄々しく、恐れもなく剣を振るう。
 その姿に多くの人間が憧憬した。その恐れのない姿に自分もああ在りたいと。その迷いない姿に自分もああ生きたいと。その揺るぎなき姿に自分もああ至りたいと憧憬し、焦がれ、慕った。そうしていつしか男はこの二つ名を頂いた。『勇者』と。
 男の名はオルテガ・ヴァールハイト。アリアハンが誇る勇者―――。


 オルテガに一つの命が下された。
 魔王を倒せ、という王から勅命がオルテガに下されたのだった。
 この世界に、一つの脅威が蠢いている。人の日常の紛れ、隠れ、しかし確実に傍まで忍び寄ってきている。世界でも有数の魔術師兵団を有していた大国ネクロゴンドが魔王に屈した。この事を重く見た各国はネクロゴンドに対し、救援と同時に援軍と討伐部隊を差し向けた。盟主国ロマリアを初めとして、アリアハン、ポルトガ、イシス、ダーマ、ランシール、サマンオサの七ヶ国は同盟を組み、艦隊を向かわせた。

 そこに動員された兵は十五万とも二十万とも言われ、集結した各国軍艦は五千とも言われるほどの大軍勢であった。多くの人間が遠征軍の勝利を疑わなかった。その余地もなかった。そのアリアハン艦隊の中にオルテガもそこに在った。だが、彼が垣間見たのは予想を遥かに超える地獄の具現であった。


 森林と湖に囲まれ、その神秘的な美しさで名を馳せたネクロゴンドの姿は、どこにも存在しなかった。ネクロゴンドを包み込んだ終わることのない霧の闇、緑豊かであったはずの大地は枯れ果て命のない世界がどこまでも続く。生物は失われ、救護は絶望的であった。
 生物を奪った夥しく蠢く魔の者は闇の霧そのものではないかと思えるほど溢れかえっていた。その姿に多くの兵が息を呑んだ。天を覆い潰す異形の雲は、ネクロゴンドの大地を包み込んで、人々にただ、そこに存在し続けるだけで絶望を与える場所へと変わっていた。

 オルテガは今でもその光景を鮮明に思い出せる。多くの兵が言葉を失った。その地獄を垣間見れば、人も、動物もそこに生きてはいないと悟るには充分だった。

 遠征軍は程なくして撤退を余儀なくされた。無尽蔵に溢れ出て、空を塗り潰す異形たちは遠征軍に容赦なく牙を向いた。倒せども空を黒く染め上げ、大地を食い潰して襲い来る魔物に、遠征軍は次第に疲弊し、物資も限界に来るのは時間の問題だった。その決断が下るまでに、多くの英霊が黒い大地の底に散り、消えていった。彼らを助けられなかった悔恨は、未だにオルテガの胸にある。


 窓越しに移る一人の女が、寝台に横たわる二人の子供たちに子守唄を唄って聞かせていた。そのせいか子供たちは二人とも既に深い眠りに誘われ、ぐっすり眠っているようだった。様子を確認して、毛布を子供たちに被せた女がオルテガに視線を向ける。

「ねえ」

 次の言葉を発しようとして、女が短く逡巡する。程なくして言葉を続ける。


「子供たちがもう少し大きくなるまで待つことはできないの?」

 オルテガが視線を向けて、女の顔を直視する。オルテガは言葉を濁すことなくはっきりと告げる。

「それはできない」

 女もまた、返答がわかっていたようだった。伏し目がちにオルテガを見つめる。オルテガもまた、女を顔を真っ直ぐに見つめる。彼女はオルテガの妻であるクレア・ヴァールハイト。化粧っけのないすっきりとした顔立ちと美貌を持っている美人だった。オルテガは彼女の瞳の青空の色をそのまま落としたような…そんな深い青色の瞳が好きだった。オルテガは寝台まで歩み寄り、深い眠りの底にいる二人の子供たちをそっと抱き寄せる。

「すまない……でも、わかってくれ」

 オルテガが苦しげに呟くように、クレアや子供たちに告げる。

「俺は少しでも早く、平和を取り戻したいんだ。皆のためでもある……だが、それ以上にお前やアゼルス、アルティスのためにも」

 世界は乱れている。ネクロゴンド崩落以前の安定は、もうない。魔物も以前と比較して凶暴になり、その牙により多くの安寧が引き裂かれ、この瞬間にも涙が絶えず、悲劇が生まれていることであろう。

 それがオルテガにとっては苦痛でもあった。一つでも多くの悲劇と慟哭に肩を震わせ、無念の怨嗟には怒りを共にし、寂寞の涙には手を差し伸べずにはいられなかった。
 彼の願いは、ただ誰もが幸せで、笑顔であってほしいと願っているだけだった。だが、それがどんなに難しく、業深い願いであるのかは、彼自身が誰よりも深く心に刻んでいる。それでも、彼は他者の笑顔と幸福を願わずにはいられなかった。


「ごめんなさい……わかってるわ。あなた。でも、無茶だけはしないで」

 妻の心配に、オルテガは頷くことはできずにいた。
 それだけこれから、オルテガが歩むことになるであろう道筋は熾烈なものになるであろうことは、想像に難くはなかった。
 だが、それでも、オルテガにはその道筋を歩まずにはいられない生き方と理由があった。


 その数日後、オルテガはアリアハンを旅立った。
 国王の要請を受け、人々の歓待と歓声を背に祖国を後にした。その人混みの中に、彼の家族もまた、その中にいたことはオルテガもまたわかっていた。妻と幼い二人の子供の姿を目に焼き付けるため、刹那ほどの時間であるが立ち止まり、そしてまた歩み出した。

 歩み出した彼の道筋は世界を辿っていった。
 かつてオルテガが訪れた国、街、村。そしてこの旅で初めて足を踏み入れた場所、時には美しい光景に彼の心は奪われ、時に忘れ得ぬ出会いと出会った人々への感謝を胸に歩みをやめなかった。
 だが、時として凄惨で残酷な場面にも幾度となく遭遇し、命の選択を迫られる場面にも幾度となく出会い、その度に選択し続けてきた。一つの命に貴賎などなく、老いも若きもなく一つの単位―――。
 それを繰り返し続け、そして、


 朝方から降りしきる雨は、午後を過ぎても止む気配は見せなかった。
 天から降り注ぐ、銀の雫が落ちていくのは絶えず脈動を続け、蠢きを続ける山の頂の底だった。煮え滾る炎の音は遠雷にも、獅子の咆哮にも似ていた。

 そこで、オルテガは漸く、出会った。
 見た目には初老の、紳士然とした男性であった。擦り切れた法衣を身に纏い、青銀の肩まで伸びた長い髪の、男。その顔立ちには幾重にも皺が刻まれているが若かりし頃は美男子であった面影が見て取れ、老いが刻まれたことにより妖艶さとなって不思議な美しさを感じられた。

「……バラモスか」

 オルテガが男の名を呼び、男が冷笑を浮かべる。


「如何にも」

 男が頷き、オルテガが鋼の剣をきつく握り締める。オルテガが跳躍し、剣を振るう。大気を引き裂く瀑布の如き一閃。だが、男は素手で難なく受け止める。

「勇者と謳われた男の一撃。以下ほどのものかと期待をすればこの程度か」

 掴んだ剣諸共オルテガを投げ捨て、地面に叩きつけられる。オルテガは立ち上がり、再び剣を構えるが、男は立て続けに指先で魔力を練り始め、指先から生まれた小さな焔は赤から青、銀、金へと散乱光を撒き散らしながら温度の高ぶりと共に色を変え、火の球へと凝縮されていく。指先から開放された火球はオルテガを目掛けて放たれ、目の前で爆発した。激しく炎上した炎は大気を交わって色を変えながら、オルテガを嬲る。

 くくっと喉を鳴らした男は間髪を入れずに、指先から火球を生み出し、金色の火球を連続して放つ。オルテガは咄嗟に身を捩り、炎から抜け出すと爆炎の中を掻い潜って、全力で走り出す。雨で抜かるんだ大地を力強く踏み締め、オルテガは必死に走り続けた。

 駆け抜けるオルテガの頬に豪火球の焔が触れる。熱風が髪を撫で、皮膚を焼く。それでも異に返さずぬかるんだ土を力強く踏み締めかける。オルテガの正面にメラゾーマが爆ぜ、爆風と熱風がオルテガの体躯を包み込んで、粉塵が巻き上がる。天高く吹き上がる噴煙の中にオルテガの姿が消える。

「儚いな…」

 冷笑混じりにバラモスが、粉塵を見下ろす。だが、粉塵を突き抜けて真っ直ぐに跳躍してくる一つの影。切っ先を一直線に突き立て、バラモスを穿つ。深く、鋭く痩せた体躯に刃が吸い込まれていく。感触でオルテガは異変を察し、バラモスの身体を蹴り上げて、着地する。

 優男の身体は仰け反ったまま硬直したままだった。だが、直ぐに男は身体を起こす。オルテガの姿を直視し、にやりと笑った。不可解にオルテガがその姿に目を細める。

「それで、よくも余を倒すなどと言えるものだ」

 くつくつ笑うと優男は口元から吐き出された真紅の血を雑にふき取る。

「やはり、お前では余には届かん」

「…何?」

 バラモスの掌から小さな太陽が溢れ出る。魔力の収縮と同時に大気がざわめき、歪んでいく。オルテガはその掌程度の小さな光に全身の血がざわめくほどの戦慄を覚えた。

「さよならだ。オルテガ。愚かな勇者よ」

 そう言い放つと、バラモスの指先から開放された金色の太陽が、爆ぜた。
 暴風と閃光の輝きに、オルテガの視界は白に支配されていく。純白の世界にオルテガの体躯が解けて、消えていく。


 まだ、俺は―――。


 そう言おうとして、言葉にはならずに白の世界に掻き消される。

 オルテガの思惟に過ぎったのはアリアハンで待つ妻と二人の子供たちの優しい笑みだった。ふと、オルテガは手を伸ばしていた。家族の姿を、掴もうとして。手が動かない。身体が動かない。光に包み込まれた身体に自由などなく、強い光に、暴風に、オルテガの全てが支配され、奪われていく。


 帰らなければ、ならないんだ―――。

 勇者は、身体も思惟も、白の瞬きの中に、消えていった。




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