風は温かくなった。先月までの冬の寒さが溶け出し、枯れた木々から少しずつ蕾が咲き誇り、芽吹くまで後もう少し。穏やかになった大気は山々の雪を溶かし、空気が熱を帯び始め、雪解け水が下流に流れ始めていた。冬眠から覚めた鳥たちが歌い始め、春の訪れを肌で感じられるようになった。

 アリアハンは温暖な気候にあった。温暖な気候であり、明確に四季があるこの国の気候は冬季を抜け、春季へと移ろい始めていた。

 この国はかつては軍事国家として世界に名を馳せた大国であった。だが、過去に幾度となく繰り返された戦争により国力は衰え、小国家となった。だが、その影響力は衰えてはいなかった。国際貿易に力を注ぐことにより国力を回復し、かつての影響力を取り戻しつつある。現国王の善政もあり、生活の水準はかなり高く、貧富の差が激しい国などに比べればだいぶ落ち着いた国といえよう。

 綺麗に晴れ上がり、青空の青がどこまでも広がった春先の空。
 若葉が生い茂る路地に一人の少年が困り果てていた。理由は何のことはない。母親と逸れてしまったらしい少女が一向だに泣き止まずに、原因がわからないからだった。

「困ったなぁ…」
 少年がのんびりと現状に対する感想を述べる。唇に指を当てて、考え始める。

「そうだ」
 ふと、思いついたことを少年が実践してみた。

 少年がふと思いつき……銀の横笛を吹き始めた。
 少女はそんな少年をまじまじと見つめ、その音色に聞き入っているようだった。優しい音色だった。伸びやかに少年が唄うのは、幼い頃より曲名もわからない……母が口ずさんでいた童謡。少年の優しく心に染み入ってくる音に泣きじゃくっていたはずの少女は聞き入り、涙は止まっていた。
 少女がはぐれていた母親の姿を見つけ、ぱたぱたと小走りに駆け寄った。母親が少年に小さく頭を下げ、少女がばいばい、と小さく手を振る。それに少年が小さく手を振り返す。

「よかった」
 少年が胸を安堵で満たして、そう漏らして微笑む。

「よかった……じゃない」

 少年の背後から声変わりを経過したばかりの、掠れた声が響く。こつんと、頭を小突かれて少年が後ろを向く。
 そこにいたのは金髪の小柄な少年だった。童顔という訳でもなく年相応の幼さを残す整った顔立ちと、くるくるとよく動く大きな灰色の瞳が活発な印象を与える。

 華美ではないものの、着ている上着は明らかに絹。随所に金糸銀糸を使った飾り刺繍が施されていることからそれなりの身分にいる少年だというのがわかる。それなりに筋肉が付いてるが、全体で見るとどうしてもやはり華奢な印象が否めない。快活な印象を他者に与え、人懐っこい無邪気さが目立つ、猫を思わせる少年だった。

「やあ、ルシュカ」
「やあ……じゃない!」

 むすっとした様子でルシュカと呼ばれた金髪の少年が答える。
 この少年はルシュカ・ハーゲン。アリアハンの城下町にある武具屋の一人息子で、アルトとは学校の同級生であった。それ以前に両親同士が交流があったため、幼馴染という間柄になる。

「また、誰彼構わずに親切を焼いて」
「いけなかった?」
 少年がきょとんとしてから、深々とルシュカがため息をつき、しかめっ面をする。

「誰かが困ってるのってなんか放っとけなくて。それに泣いてるのより、笑ってるほうがいいじゃない」
「まあ、お前らしいけどさあ」

 もう、諦めたとばかりにルシュカが言う。この少年が他人に対して親切を焼くのはいつものこと。困っている誰かを見過ごせずに、声をかけて何に対して困っているのかを察し、解決するために行動する。それがこの少年の性格であった。

「まあ、いいか。今に始まったことじゃないし」
「でもさ」
 少年の眼差しは真っ直ぐに親子を見据えて、強い意志を持って告げる。

「誰かを助けたら、自分も少しだけ幸せになれるし、助けた人もちょっとだけ楽になって幸せになれるからそれでいいんじゃないかって思う。見過ごしたら僕も後悔するし、苦しいままだよ」
「そんなもんかねえ」
 ルシュカは今一納得できていない様子で、少年を見る。

「あ、そうだ」
 大切な用事を思い出したのか、ルシュカがぽん、と手を叩き、にんまりといたずらをする前の子供のような無邪気を笑みを少年に浮かべる。それに対し、少年が小首を傾げ、疑問を尋ねる。

「どうしたの?」
「面白そうなものを見つけたんだよ。一緒に行こうぜ」
 少年の肩を叩き、ルシュカが促し、小走りに駆け出す。そして、屈託なく、呼ぶ。

「アルト」

 アルトと呼ばれた少年が笑顔を浮かべて、ルシュカの後に続いた。少年の笑顔は深い優しさを湛えた穏やかな太陽な微笑みだった。

 少年の名はアルトといった。
 黒い髪、藍色の瞳。すらりとした四肢の小柄な、華奢な少年だった。まだ幼さを残す少女のような繊細な顔付きは、目はぱっちりして大きく見えて、鼻梁がすっきりとしていた。藍色の瞳は深く、星空の底を覗き込んだかのように澄んだ、穏やかさを湛えた優しげな眼差しは見る者を癒し、荒ぶる心すら忘れさせる、温和さを感じさせた。

 



 ルシュカに連れられてきたのは、城壁の下だった。城下町と外界を囲み内と外とで隔て、魔物や山賊などの外敵から住人を守る堅牢なるもの―――その壁下にアルトとルシュカの二人はいた。

「ここが、どうかしたの?」
「これこれ」
 ルシュカが指差す先には微かに隙間が開いている。アルトやルシュカの華奢な体躯だと無理をすれば、通れるほどだろう。

「でも、外は危険だし、物騒だし、よくないと思うけど…?」
「大丈夫だよ。アリアハンならさ。いてもスライムぐらいだろ? そんなんで物騒なんていうかよ」
 悪びれる様子もなくルシュカが自身有り気に胸を張る。アリアハンの治安はいい。兵力や騎士団が強く山賊や強盗といった賊は直ぐ様に討伐され、魔物も強大に成長する前に倒される。
「もしかして、怖いのか」
 少し馬鹿にするようにルシュカが鼻で笑う。それにさすがのアルトもむっとした様子でルシュカを見る。
「別に……怖くはないけどさ」
 アルトは代々アリアハン王家に仕える騎士の家系の生まれであった。そのために、ルシュカの物言いは穏やかな性分とはいえアルトからすると心外な言い方であった。

「じゃあ、決まりだな」
 アルトの返答を待たずして、ルシュカが身を屈めて隙間へと入っていく。アルトも短く嘆息した後、その後に続く。

「……待ってよ。もう」
 入り込んだ隙間は狭く息苦しかった。剥き出しの地面と身体を預けることで鼻腔に土の香りが吹き抜け、湿った土は冷たかった。光のない場所を腕の力だけでゆっくり前へと進む。頭を少し上げれば、出口は、もうすぐそこだった。

 ルシュカが手を差し伸べた手に捉まって、アルトが立ち上がる。衣服についた土を払いながら、周りを見る。アルトとルシュカの眼前にあったはずの巨大な城壁は二人の背後にあり、戻ることを拒絶されているかのような錯覚を受けるが、閉じた世界から抜け出た感覚もまた、同時に感じていた。

「行こうぜ」
「うん」
 ルシュカに促され、アルトが頷く。そして二人が駆け出す。

 二人が駆け出し、踏み締めるのは舗装された石畳でもなく、堅い土でもなかった。足から伝わる感触は柔らかかった。湿った冷たい感覚は靴越しでもはっきりと感じられ、不慣れな地面の感覚に気を抜けば足を取られて、転んでしまいそうだった。

 たどたどしくも二人が歩くのは森林だった。鬱蒼とし、木々の陰に覆われ昼だというのに薄暗く、手入れのされていない獣道を歩くと身体に木の枝や雑草が絡みついて、足を掬われそうになる。
 まだ育ち盛りで筋肉が未完成な二人の少年にとっては、この城下町を抜け出た場所にある森林を歩くだけでも、かなりの体力を必要とした。太陽が差し込まないはずの場所を歩いているはずなのに、アルトの身体は疲労で熱く、頬に汗が伝う。


「いってえ!」
「どうしたの…?」
 ルシュカが突然足の脛を押さえて、蹲る。それを見て、アルトが駆け寄る。
 ルシュカの足にぶつかって、ころころと転がる水色の半透明の球根の様な形をした生物がいた。ある程度転がると大きな目をぱちぱちとさせてから、二人の少年を見つめている。

「スライムじゃない」
 アルトの顔の半分ほどもない大きさのスライムはただ何をするでもなく、二人を見ているだけだった。

「……こん…のぉ……」
 ルシュカが呻く様に顔を上げて、スライムをジト目で睨み付ける。それで自分の危機を察したのか、ぴっと小さな悲鳴を発した後に一目散に逃げ出したのだった。

「あっ、待て! …痛ぅ……」
 ルシュカが咄嗟に立ち上がろうとして、足の痛みでまたルシュカが呻く。

「ちょっと待ってて」
 アルトがしゃがみ込み、掌を足の脛に翳す。

「恵みを齎さん。生命の躍動を呼び覚ませ」
 アルトの掌から白い光の文字が描き出されると同時に光が溢れ出して、ルシュカの傷ついた足を包み込む。
「―――ホイミ」
 アルトの唇から言霊と同時に呪文が放たれ、ルシュカの足の痛みを癒した。

「悪い、後、呪文ってのはすげーな」
 ルシュカが立ち上がり、感心して感嘆する。足を伸ばしたり屈伸しながらを繰り返して、痛みを確認するが痛みはすっかり消えていた。

「凄くなんかないよ。初歩中の初歩だし」
「おれには呪文なんて使えないからそれでも充分凄いと思うぞ」
「そうかな…?」
 アルトが少し照れ混じりに笑顔を浮かべる。

 呪文とは魔力を通じて引き起こされる現象を指した言葉だ。
 呪文とは言葉だ。
 大気に存在するマナの力を自己の力として表現して、文字が力を得て、その効果が具現したものとされる。マナは大気と同化し、常時発生させている神秘的な力の源のことだ。人間は無意識のうちに呼吸と一緒にマナを体内に取り込んでいる。

 それを使用し、現実や常識から切り離された独自の認識や感覚、土台となる自分だけの領域を制御する事で始めて呪文として存在する本来はありえない現象を発現させる。発現させるのに、言葉という形で放つことで具現する。

 しかし、扱いが非常に難しい。本人とマナの相性、魔力を制御する知識、マナを扱えるほど強くイメージできる集中力と表現力、五感でマナを把握する能力・肉体との同調率、マナを鋭利に感じ取れる能力の全てを兼ね備えた人間だけが呪文を使用できる。

「でも、俺が使うんなら回復じゃなくて派手な攻撃呪文を使いたいね」
 ルシュカがくっくと含み笑いをし、アルトが表情を曇らせる。
「僕は……そういう何かを傷つけるための力は、いらないよ」
 アルトが森林に響く虫の音にかき消されてしまいそうな、小さな声で呟く。

「なんか言ったか?」
「ううん、別に」
 アルトが誤魔化す様に首を振る。さして気にしていなかったのか、ルシュカが歩き始め、アルトもそれに続いた。
 獣道を掻き分け、湿った舗装もされておらず柔らかい地面を歩く。大小様々な砂利を蹴り、森を抜けた。

 開けた視線の先に、青空が広がった。
 穏やかな冷たい風が吹き抜けて、熱くなった身体を冷まし、頬を伝った汗を拭う。鼻腔を付いた青臭い草の匂いが草原から漂う。
 ルシュカがゆっくりと加速し、走り出した。走り出した勢いが削がれ、すぐに転がるようにして倒れこんでしまう。
 アルトも歩み寄り、その場で崩れ落ちるように座り込む。

「あー……なんか疲れた」
「うん」
 疲れをそのまま吐き出して、ぐったりとルシュカが草原に横たわる。

「でも、なんか楽しいな。こういうのって」
 ルシュカがくつくつと笑い始める。アルトもそれに釣られるようにして笑い出した。旅慣れた旅人からすれば些細な距離かもしれないが、思春期の少年たちにとってはそんな些細な距離でも充分に冒険で、刺激的なことだった。

 止め処なく汗が溢れ、春先のまだ冷たい風が拭うのが心地良かった。アルトもルシュカも二人とも言葉を発さず、草原は静寂に落ちる。草原に風が吹き抜ける度に身体の熱が冷やされていくのがわかった。だが、刺激された好奇心は冷めることなくまだ燻り、少年たちの身体を突き動かそうとしていた。冒険心はまだ抑えられそうになかった。それだけ、閉じた城内より魅惑的な世界に思えた。

「……ん?」
 アルトが起き上がり、何かを感じ取る。

「どうした…?」
 不穏を感じ取ったのか、ルシュカも身体を起こしてアルトに尋ねる。
「わからない…けど、何か変だよ」

 森がざわめいていた。木々が騒ぎ、樹木が揺れる度に木々が擦れる音が響き、とても耳障りに騒ぎ立てる。その音に鳥たちが一斉に飛び立ち、動物たちの威嚇の叫びが聞こえたかと思えば、同時に鳴り止み、草原に凪が訪れる。静寂とは違う。大気が張り詰めていた。緊迫した重さが肌で感じ取れた。

「…なんだよこれ」
「わからない…けど、何かいる」

 アルトが先に立ち上がり、ルシュカに手を差し伸べる。掴まり、ルシュカも立ち上がり、不安げに周りを見渡す。

「戻ったほうがいいかも」
「そう…だな」

 アルトが城下町に戻ることを提案すると、ルシュカも頷くが表情が引きつっていた。怒られる事を考えたのであろうがこの場に留まって危険に晒されるよりはずっと安全なことだ。

 二人が行動を起こそうとしたその矢先。
 大樹が倒れた。大木が倒れた地響きが草原に響き渡り、満ちていた凪が掻き乱される。森を掻き分けて現れた小山ほどもある巨大な影に少年たちの動きが竦む。その視線が向けられ、萎縮し、恐怖に身体の自由を簒奪される。全身の力が抜けていく。

 森を掻き分けて現れたのは骨の竜だった。小山ほどもある巨体だが、かつてはあったはずの肉が剥がれ落ちて肉が腐り果てた強い異臭を放っていた。
 竜の歯軋りが草原中にざわめく。草も動物も小さな魔物も、何かもを蹂躙し、二人の少年たちを虚ろで、殺意に満ちた魔物の眼差しが真っ直ぐに射抜いていた。

 さっきまで熱かったはずの体温が冷めていくのが全身に伝わる。それと同時に本能が危険を訴え、足を動かすように命じるが目の前の異形に自身の影を縫いつけられたかのように足が凍り付いていた。アルトは自分の身体に恐怖が満ちているのだとその時はっきりと自覚できた。

「…逃げろ!」

 全身を射抜いた恐怖を振り払って、ルシュカが声を絞り出した。アルトの手を引いて、走り出した。骨の竜は鈍重だがその巨体故に二人の歩幅を詰めるのにそう時間は必要なかった。必死に走る二人の耳に入ったのは地面のえぐれる音と同時に土煙が舞う瞬間だった。気付けば二人は宙を舞い、全身に激痛が走る。走っていたが、地面に叩きつけられていた。高々爪の一振りでも二人の少年たちの傷を負わせるのには充分だった。

 アルトが嗚咽し、ルシュカが隣で咳き込んでいた。二人に重なる巨大な影。虚ろな魔物のがらんどうな視線が二人を見下ろしている。

「アルトだけでも、逃げろ…!」
 苦痛に呻きながらもルシュカが言う。アルトが首を振って立ち上がり、魔物を見据える。

「逃げるのなら…ルシュカが逃げて」
「…馬鹿だろ…」

 アルトにも自分自身が盾にもならず、自分が時間稼ぎにもならないことは百も承知だった。だが、それでもルシュカを置いて逃げることなどアルトには出来なかった。

 傷ついた身体の力を振り絞って、立ち塞がる。恐怖はあった。足が竦む。だが、それ以上に傷ついてる親友を見捨てて逃げ出すことなんて出来ない。出来るはずがない。呪文を詠唱しようにも魔物の爪は振り下ろされた。間に合わない。凶暴な風が自分たちを押し潰そうとしている。

 だが、
 魔物の爪は少年たちに届くことはなく、停止していた。二人の少年の前に重なるもう一つの影。
 青い外套が風に靡く。切り整えられた黒髪。深い海の底を思わせる藍の瞳は鋭利なまでに鋭い。整えられた顔立ちに浮かぶ表情は鋭く牙を突きたてられた狼のようにも思わせる鋭利さが浮かんでいた。柄にアリアハン王家を示す獅子の紋章が刻まれた鋼の剣で魔物の牙を受け止め、それを弾き飛ばす。

 そのまま、青年が跳躍し、唐竹から一文字に剣を振り下ろし、熱風の如く一閃は魔物を切り裂いた。引き裂かれた魔物がゆっくりと草原に倒れ、沈んでいく。地面に降り立ち、青年とアルトの視線が交錯する。


「兄さん」
「よう、無事か?」
 アルトに向けて青年が気さくににっと笑いかける。
 アゼルス・ヴァールハイト。
 この青年は、勇者の子で、そして勇者を受け継ぐとされる次代の希望そのものだった。

 少年はアゼルスの弟であり、勇者の次子。
 アルティス・ヴァールハイトといった。



 草原を吹き抜ける春先の涼やかな風は、二人の兄弟の間を吹き抜けていった。



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