そこは寂寞とした静寂に包まれていた。
 見上げたステンドガラスには神話の神々が天上に手を伸ばし、光を蒔いていた。光が大地に溢れ、人がそれを神の奇跡として享受される様が描かれていた。教会ではそれをマナだと解釈していた。

 マナとは魔術を行使される際に使用する魔力の事を指す。魔法使いが所属する『協会』と僧侶が所属する『教会』とでは講釈が異なる。『協会』ではマナは神秘だと解釈されている。気や動物などが常時発生させ、自分の思念によって働きかけることで目覚める神秘だとされている。『教会』では位相の異なる神の世界から降り注ぐ奇跡だとされ、神々が人を愛し、恵みを齎しているのだと解釈されている。
 二つの議論は二つの組織によって長年意見がぶつかり合い、どちらも譲り合うつもりはないようだ。

「いってえ…」

 ルシュカが蹲って、礼拝堂の椅子に座り込んで頭を擦る。
 あの後、アルトとルシュカの二人は当然のことながらアリアハンに連れ戻された。その後にアルトの祖父ガルドに長時間説教と拳骨を、罰として教会の礼拝堂の掃除をさせられることになった。
 城下町を抜け出したことによって多くの人に心配をかけたのだから、何かしらの罰があるのは当然ともいえた。

「それで済んでよかったとも思うけど」
「……まあ、な」

 アルトが思い出して呆然と言い、曖昧にルシュカが頷く。アゼルスが助けに来るのがもう少し遅れていたら、二人はこの場にはいなかった。あの時の恐怖は忘れられるものではない。

「もう、あんな無茶しちゃダメだよ。全く」
「それはどうかな?」

 アルトが苦笑し、いたずらっぽくルシュカが笑んだ。この好奇心の高さは彼の魅力の一つではあるが時に無謀とも思える行動をする故に、近くにいる側としては常にハラハラとさせられ、心臓にはよくない。
 好奇心が旺盛で活発なルシュカと控えめだが周りを見てその行動を制止するアルト。ある意味でこの二人は真逆だが、ある意味でこの二人のバランスは取れていた。たまにアルトでも制止できずに突っ走ってしまう時があるが。

「次はあんまり無茶すると止めるからね。ほんとに」
 アルトが嘆息混じりに言うが、それに対してルシュカは悪びれずにくつくつと笑う。アルトが顔を上げれば、硬い教会の大理石を踏む音が響いた。
 それに対してルシュカが顔を上げようとした瞬間に、彼の頭に厚い聖書で叩かれる。

「次のミサまで時間がないので、早くお願いしますよ」
 見上げれば白髪の人の良さそうな顔立ちをした壮年の男性が立っていた。アリアハンの教会で、神父を教会側からローレン神父が咳を払い、慌ててルシュカが立ち上がる。

「あまり親御さんを心配させないようにしてください」
「えー……」
 ローレンの言葉に、ルシュカが口を尖らせる。
 神父が深々と溜息をつき、あまり反省する様子が見られなかったので頭を痛めているようでもあった。

「君も、アルトも親御さんから見れば宝なのです。好奇心が旺盛なのは結構ですがそれで何かあったらどうするのですか」
「それは…」

 ルシュカが口篭り、それと同じくしてアルトもまた沈黙した。
 アルトの父オルテガは優れた戦士であったが、十年前に魔王討伐の旅に出たきり帰る事はなく行方を眩ませた。

「あまりご両親を心配させるものではありませんよ」
 ローレンはそう告げると、優しくアルトの肩に手を置いた。

「………はい」

 アルトが深く頷きを返す。家族がいなくなった空白は簡単に消えないことの重みを、アルトはよく知っている。いるはずの場所に、人が一人いなくなることがどれだけ悲しく、黒い爪痕を残すのか……そしてそれが消え行くのにどれだけの時間を要するのかをその目で見てきている。

「説法はここまでにしましょう。ミサまであまり時間がありません。早く掃除を済ませてくださいね」

「……はい!」

 頷くより、早くアルトが箒を持ち直して掃除を再開する。ルシュカも面倒臭そうではあったが渋々と言った様子で手伝っていた。

「お父様」

 礼拝堂に可憐で、優しく澄んだ声が響いた。手に聖書を持ち、神父に近づいてきたのはアルトやルシュカと同年代ぐらいの少女だった。
 新雪のようにほんわりとした白い肌、ほっそりとした腕、背中まで届く柔らかそうな髪は、空の蒼を映した水鏡のような透き通る空色の髪。
 少し垂れ気味の目が穏やかな表情がよく似合う清楚さと温和な印象を与える。ただ見ているだけで幸福感を感じさせ、思わずに抱き締めたくなる愛嬌を感じさせる。
 だがアルビノめいた色彩の薄い空色の髪と紅の瞳は同時に目を離せばここから消えてしまいそうな儚さと神秘さを少女に纏わせ、保護意欲を掻き立てずにはいられない……そんな少女だった。

「ミサで使う聖書をお持ちしました」
「シエル。すまないね」

 それにシエルと呼ばれた少女が笑みで返す。シエルはローレンの娘であり、アリアハンの教会で見習いシスターとして修練をしている少女だ。
 アルトやルシュカよりも一つ上だが、行く行くはアリアハンの教会を継ぐ僧侶としての道が定まり、そのための呪文の鍛錬も日々行い、上達してきている。

「アルト君も、ルシュカ君もどうしたんですか?」
「あ、うん。これは…」

 こくんと、シエルが小首を傾げる。返答に困ってアルトが言葉を濁してしまう。心なしか顔が熱く、鼓動が跳ね上がっている。乱れた心音に阻まれて、旨く返答が形にならない。あわあわと顔を紅くさせるアルトにルシュカが肩を竦めていた。それが気恥ずかしくて、更にアルトが頬を染める。

「あー、うん。ちょっと城下町から抜け出してね。その罰で教会の掃除させられることになっちゃって」
「もうっ。何でそんなことするんですか」
「なんて言うか…好奇心?」
「好奇心でもそんなことしたらダメです」
 シエルが咎めて、ルシュカが乾いた笑いで濁した。

「わたしも手伝います」
 シエルがおもむろに雑巾を手に取り、祭壇を拭き始める。

「皆でやれば、すぐに終わりますから」
「おー、ありがと」
「どうしてしまして」
 シエルがにこっと微笑んで、掃除を始めた。そんな彼女を尻目にルシュカが近寄り、アルトの首筋に手を回す。

「シエルは、可愛いよな」
「ふぇっ!? えー、あー…えっと」

 そうルシュカに囁かれて、咄嗟にアルトが顔を赤らめる。振り向いたシエルの紅い眼差しと視線が交錯し、硝子細工のような、紅い瞳の世界に吸い込まれそうになる。

「喋ってないで、手伝ってください」
「わかったよ」

 ルシュカがアルトから離れ、肩をぽん、と叩いた。
 それまでの乱れた心音を振り払うかのように、アルトもまた掃除を再開し始め、シエルはそんな二人の様子を小首を傾げていた。それを見て、ルシュカがくつくつと笑うのに、アルトがじとっとして目で睨むのだった。


 程なくしてミサのために、人が集まり始め、それに間に合って礼拝堂の清掃も終えることができた。ローレン神父もその準備のため、礼拝室で聖書に目を通していた。挨拶と報告をし、アルトとルシュカは礼拝堂を後にし、教会を出ようとした時に呼び止められた。

「今日はありがとうございました」

 シエルが深々と頭を下げてから、笑顔を向ける。自分たちの罰でやらされた掃除ではあったが、感謝されたことに悪い気はしない。

「でも、二度としないように」
 シエルが念を押して、釘を刺す。

「何かずっとそれを言われてる気がする……」
「仕方ないです。皆を心配させた罰です。我慢しちゃってください」
 シエルが笑んで、気まずそうに二人が視線を逸らす。

「それに……」
 シエルが少し言い辛そうに言葉を淀ませる。暫し逡巡する少女に少年たちが顔を見合わせる。言うのが気恥ずかしいのか少女は頬を少しだけ紅く染める。

「わ、わたしだけ退け者にしましたから……」
 小さく少女が消え入りそうな声で言い、顔を真っ赤に染める。

「な、何でもないですっ」

 シエルがわたわたと手を大振りに振ってごまかすも、もともと少年たちの耳に届いていなかったため、二人は不思議そうに少女を見て、少女は二人の様子を見て更に顔を紅くしたのだった。



 教会から時間を知らせる鐘の音が辺りに響き渡り、朝のミサが始まることを知らせる。それに伴って二人は少女に見送られて、ルシュカともその場で別れることになった。アルトが教会を後にしようとした時に、

「やっと終わったか」

 身を預けていた壁から、身体を離してアルトに近づく一つの影。物陰から現れたのはアゼルスだった。通路を吹き抜けた冷たい風がアルトの頬を撫でた後、アゼルスの黒髪を揺らした。

「兄さん」
 アルトが少し驚いた様子で、兄と視線を合わせる。
「なんだ。忘れてたのか」
 アルトが小首を傾げて、それに困ったようにアゼルスが手で顔を覆う。

「日々の鍛錬があるだろ。その迎えに来たんだ」
「でも、それは午後になってからじゃないの?」

 アゼルスとアルトは毎日昼食後に剣の鍛錬を行っている。無論アルトとてそれを欠かしたことはない。しかし、まだ時刻は九時を過ぎ、まだ一日が始まったばかりの時刻だ。鍛錬の時間までまだ凡そ四時間余りある。

「今日は午後から王宮に行くって言ったろ? だから今日は午前中にやるって約束してただろ」
「あ、うん」
「全く。仕方のない奴だな」

 呆れたように、アゼルスが苦笑した。それから程なくしてアゼルスに連れ立って、アルトもまた歩き出した。
 教会は北東部の閑静な住宅街の中にあり、そこには兵士や騎士が住む兵士宿舎や兵士寮がある部分に住んでいる場所に存在している。アルトとアゼルスが住むのは町の中央部にある市場や歓楽街がある部分から、南西部に位置する主に貴族などの高貴な身分の人間が住む高級住宅街だ。自宅までは徒歩で一時間足らずで行ける場所にある。


「兄さん。お城に呼ばれたってことは」
「ああ、たぶんそうだろうな」

 アゼルスがアルトに視線をやらずに、神妙そうに目を細める。アゼルスは十六の誕生日を迎えた。アリアハンでは十六になると成人だとみなされる。それ以前にアゼルスは王に許しを請い、旅立ちの許可を進言していたが王は成人を条件に許可すると告げられ、その時がアゼルスにも漸く来たということだ。

「勇者として旅立つ日が来たってこと?」
「ああ、そうだろうな」

 アゼルスがきつく、拳を握り締めた。アゼルスの紫の瞳は使命と正義がはっきりと宿り、その相貌を見つめると暴風が身体を打ち据えたのではないかと思ってしまうほど強い意志が貫く。そんな兄の姿にアルトは畏怖の念を禁じえなかった。

 勇者アゼルス。

 かつて蛮族や強大な魔物を打ち倒し、幾度もアリアハンの危機を救い、その名を国内外に轟かせたアリアハンの勇者オルテガの長子。
 オルテガの後継者として最も相応しいと呼び声も多く。兄は数年前に王宮の騎士に志願し、数々の強大化した魔物を倒し、武勲を挙げており、オルテガの血潮を感じ取った人間も少なくはない。事実、その勇者の血潮が成せる業か天賦の才を持っている。
 だが、アルトは知っている。彼が血潮でも、才能でもなくそれ以上に影での鍛錬が成せた栄光であることを。剣はかつての近衛騎士だった祖父から日々努力を積み重ねた結果が今のアゼルスであることをアルトはよく知っていた。

 一緒にこうして歩く度にアリアハンへの人間がどれだけ、アゼルスという若き勇者に期待を抱いているかがよくわかる。
 中央部の市場を歩いているが、喝采と応援が否が応でも耳に入ってくる。
 兄個人を勇者として認めているか、それともオルテガの後継者として見られているかなのかはアルトにはわからない。それでも兄が多くの人の希望として認められているというのは紛れもない事実だった。

 父では叶わなかった魔王討伐を叶えられる可能性があるもの。

 魔王を倒し、世界に希望を示せる存在。

 多くの人の願いを背負える者。

 それが勇者となった兄の生き様。


 隣を歩く兄の姿はとても眩しく、そして遠い姿に、アルトには感じられた。



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