「転職するぅ!?」
 ダーマの共通食堂に響いたのは、メリッサの素っ頓狂な声であった。身を乗り出してシエルに尋ねた。
 訪れた冒険者、巡礼者向けに供えられた食堂は充分に広く、疎らではあるが、それなりに人がいたため、視線を集めることとなってしまった。メリッサは咄嗟に赤面して、身を乗り出したのと同じ勢いでさ、っと座った。
「は、はい。転職することに……しました」
 シエルが恐縮したように、おずおずと告げた。急な話で、面を食らったのはアルトたちもまた同じだった。

「報告が遅くなってしまったのはすみません、でも」
「決意は固いと」
 シエルの言葉を、ユイが引き継いだ。それに、シエルがゆっくりと頷いて、同意した。確かに少し前までの昏い瞳ではなく、シエルの目は確固たる意思を秘めていた。

 真摯な光を湛えて、真っ直ぐに臆する事無く、シエルはアルトたちを見ていた。
 その目を見て、アルトはぼんやりとだが、一緒に旅をするように頼んできた時と同じ目だと感じていた。普段は穏やかだが、一度決めたことは決して譲らない……そんな強さを感じさせた。
「決めましたから。強くなる、って」
 シエルがきっぱりと言い切って、アルトの目を見て微笑んだ。

「それで、何の職に変えるの?」
「賢者、です」
 尋ねたアルトよりも、周りの客の方がざわめいた。アルトもそのどよめきに少しだけ驚いて、シエルが照れくさそうに、頬を紅に染めて俯いた。
 アルトたちは顔を見合わせてから、それからシエルを見た。シエルもまた顔を上げて、視線を受け止める。

「もうシェヘラザードさんに話はしてあります。今日、ガルナの塔まで来てほしいと……言われました」
「もう、そこまで…」
 バーディネが呆れ半分で言い、シエルが苦笑して、すみません、と謝っていた。短い時間にここまで行動していると確かに驚くもののシエルらしいと感じて、思わずアルトが笑みを溢した。

「でも、賢者になるための修行って、物凄く辛いって聞くよ? 大丈夫なの?」
 不安げにメリッサが言い、シエルが唇を引き締めて、頷きで返した。
 それは暗喩なのかはわからないが、賢者になるためには相応の困難が待ち構えていることを示しているのは確かだ。だが、シエルはそれを含めて、覚悟をしているのが伝わってきた。

「はい、わかっています。それでも、わたしは自分を変える為に必要なこと、だと思っているんです」
 一旦言葉を区切り、アルトたち一人一人の目を見てから、シエルが続けた。
「自分勝手ですが、わたしはダーマで一度外れたいと考えています。資質があっても、賢者の修練は数ヶ月掛かるとも聞きました。だから……」
 言い難そうに、シエルが俯きがちに、おずおずと告げた。それに、アルトがゆっくりと首を横に振り、シエルが驚きを隠さずに、目を丸くして見ていた。

「僕たちもダーマに残るよ。シエルを待ってる」
「でも、それじゃあ……!」
「違うよ。もうこれはシエルだけの問題じゃない。テドン、ここダーマで二度魔将と戦ったけど、僕たちは一矢すら報えなかった。このままじゃ、僕たちはきっとダメなんだ」
 シエルの目を見て、しっかりとアルトが言い切る。ネクロゴンドは魔将よりも更に、強大な魔王が待ち構えている。魔将にすら太刀打ちが全く出来ない今のままでは、勝てないことを意味している。

「シエルにはシエルの事情があるように、僕たちは僕たちの事情でダーマに残るんだ。シエルは気にしないで」
 アルトが目を細めて、照れくさそうに笑った。
「ありがとう、ございます…」
 シエルが感情を搾り出すように、感謝をした。感極まっているのか、目を潤ませていた。自分で目を擦ってから、眩しそうにアルトを見てから、シエルが笑顔を作った。



 ガルナの塔は、ダーマから見てちょうど北にあった。
 ダーマから徒歩で数時間程度の距離だが、深い山脈の中心に座していた。澄み切った湖を背に世界から隔絶するように、存在していた。
 塔の高さたるや、空に突き立ったその頂点が霞み、低く垂れ込めた雲に覆われているほどである。威厳に満ちて、外界を見下ろす塔を一体どれ程の技術が、地上に作り出せるというのであろうか。
 空気さえも張り詰めて、人が立ち入ることすら畏れ多い不浄さで満ちていた。

 ガルナの塔を見上げて、シエルはその前に立っていた。
 神聖さがありありと伝わり、緊張から唇を一文字に引き結ぶ。この塔に踏み入れた瞬間から、彼女にとっての試練が始まる。賢者になるために。自身を変えるために。
 ガルナの塔の最奥で、シェヘラザードは待っていると告げていた。シエルが賢者としての資質があれば、自ずと導かれるともまた。それを思い返して、シエルが深呼吸をする。
 冷たい空気が身体に入り込んできて、少しではあるが緊張が解れていくのを感じた。

「では、行ってきます」
 シエルが振り返り、ここまで一緒に来たアルトたちに向き直って笑顔を作った。
 これから、賢者の試練を受けると言うのに、笑顔を作れるのがシエル自身でも不思議であった。緊張は在れど、不安はない。そんな感覚を抱いて、試練に赴ける。

 こんな気持ちでいられるのは、きっとアルトに背を押してもらったからであろうか。
 漠然とした、だけどはっきりとした不思議な感情を胸に、シエルは前を向いていられる。挑戦者を睥睨するガルナの塔の登頂にも挑んでいくことが出来る。
「シエルなら、きっと……ううん、絶対大丈夫だから」
「―――はい」
 アルトにはにかんで、シエルが微笑んだ。彼がこういうのだから、大丈夫なのだろう。そうに違いない。

 そう思って、シエルが背を伸ばして塔の扉に触れると一人でに開いた。
 振り返れば、アルトたちの歓声が聞こえてそれに応えてシエルも大きく手を振った。こんなにも不安を感じずにいられるのは、きっと独りではないと知ったから。
 抗えないものがあろうと、独りではなく、誰かが側にいると常にこの心で感じていられるから。
 最後まで見届ける間も無く、扉はやはり一人でに、重圧な音を響かせて閉まっていった。

 ふう、と短く息を吐いてから、シエルがぺちぺちと弱く自分の頬を叩く。
 味方になると言ってくれたその時から……アルトの顔を見れば心臓が高鳴る。だが、それは不快なものではなく、むしろ心地良いものだった。シエルがその感情を胸に留めるように、ゆっくりと目を瞑る。
 むず痒いような……そんな感情。きっと、それは……。
 その感情の正体を感じ取って、シエルは頬を紅に染める。素の自分を、ありのままの自分を知ってほしいとすら思う。だから、今は前を向いていける。

「わたしが……誰なのか、確かめるために」
 言葉にしてから、シエルが顔を上げる。
 嘘で形作られたものではなく、本当の自分と弱さを彼の前でも出していけるように。


 どこまで歩いても、薄暗闇が続いていた。
 誰も訪れることがないであろう静謐の中に、シエルの足音だけが闇の向こうに反響しては消えていく。シエルの華奢な影だけが、ゆらゆらと揺らめく松明の灯りにぼんやりと、照らされている。
 どこまでも続く通路にいるのはシエルだけだった。
 動物や虫の蠢きなど全くない。魔物たちすらこの塔にいなかった。
 シエルがガルナの塔に入ってからずっと、生き物とは遭遇しなかったし、気配すら感じていない。シエルだけしか、この場に存在することを許されていない無明の闇。
 闇そのものがシエルを手招きして、深淵へと呼んでいるようだ。

 闇が肌に纏わり付いてくるようだった。
 シエルが闇を辿って、歩いていく。揺らめく松明が彼女の歩む道筋を描いて、シエルはそれをなぞっていく。
 どれだけ歩いたか、シエルが目を細めて立ち止まる。
「……? なんだろう、あれ…?」
 闇の彼方に、ぼんやりと蒼白い光が見える。シエルは振り返らずに歩み寄り、光に近付く。光はシエルを導くようにして、輝きを放ち続けている。シエルは近付いて、その光がなんなのか理解した。

「これって…旅の扉?」
 シエルの目の前に、蒼い光が渦巻き輝き続けていた。アリアハンから外界に出る時の、遠い記憶を呼び覚まし、少しだけ懐かしい気持ちを抱く。
 過ぎ去った思い出が蘇りそうになるのを、シエルが首を大きく振って振り切る。感慨に浸って立ち止まる時ではない。少しだけ深呼吸をして、蒼い光を見据えた。
「……こう?」
 シエルが光に近付いて、飛び込む。視界が蒼白い光に包まれて、蒼い光がシエルの姿を呑み込んで、一際大きく瞬く。きゅっと閉じられていた目蓋を、シエルがゆっくりと開けばまたどこまでも闇が続いていた。

 さっきと同じで、どこか違う場所だと、シエルが何となくだが理解した。
 こうしてこの塔を進んでいけばいいのだろうか。どこまで歩けばいいのだろうか。漠然とした不安を抱きながら、シエルがまた闇の彼方へと歩き出す。
 光明を、その先にある希望を求めて、シエルは一人闇へとまた踏み出す。

 果てなく続く無限回廊。終わりのない闇の深淵。
 どれだけ歩いただろうか。どれだけ進んだだろうか。シエルが汗を拭って、闇の向こうを見やる。
 生き物の気配がないこの闇をひたすらに歩き、回廊と回廊を繋ぐ旅の扉を使って転移し、また歩く……ガルナの塔に入ってから、この繰り返しが続いた。
 ずっと歩き続けたためかさすがに疲れも出てきていた。この塔に終わりなどあるのか、或いはもう不適合とみなされて、引き返すしかないのかもしれないとぼんやり、シエルが思い始めた頃だった。

「弱気になっちゃダメ……」
 自分に言い聞かせて、シエルが独りごちて、また顔を上げる。首を大きく振ってから、ぺちぺちと自分の頬を叩いて、弱気を振り払う。
 まだ行ける……気持ちを奮い立たせてから、シエルがその場で深呼吸をして、息を整える。冷たい空気が肺に入り込んできて、頭と疲れた身体を冷やしていく。そして、また歩き出した。

 歩いた先は、また光が渦を巻き、静かに光を湛えていた。旅の扉だった。もう、これまでと同じ様にシエルが光に飛び込む。幾度か繰り返したお陰で、最初ほどの躊躇はもうない。
 光がシエルの全身を包み込んで、次に空を舞う浮遊感が身体を満たす。
 光に誘われて、シエルの思惟が導かれる。鮮やかな様々な光が、シエルを包み込んでいく。漠然とさっきまでとは違うところへと誘おうとしているのがわかる。

 光が弾けて、シエルがゆっくり目蓋を開く。
 明らかにさっきまでの闇の回廊とは違う場所だった。白亜の宮殿……その中心にある中庭だろうか。緑萌える若葉が生い茂り、生き生きと太陽の光を浴びていた。
「ここは……」
 シエルが困惑と共に歩き出して、宮殿の大理石を蹴る。遠く耳に反響する赤子の鳴き声。声に誘われて、否、導かれるがまま、宮殿を小走りで進む。
 人はまるで、陽炎のようにぼんやりとしていた。だが、かつてのテドンのように、重苦しい情念が頭に直接飛び込んでくる感覚はなかった。

 目的の部屋に飛び込んで、シエルの目はその瞬間を見ていた。
 自分がそこにいた。瓜二つと言ってもいいぐらいだった。今のシエルより大人びた顔立ちをした青髪の女性が赤子を抱いていた。それを同じく空色の髪の、法衣を纏った男性が覗き込んで、その瞬間を祝福していた。
「これって……」
 ぼんやりと、目頭が熱くなった気がしてシエルがただ、それを見守り続けた。

 男性が女性から赤子を受け取り、抱かかえる。不慣れな手付きだったが、それでもその手からはしっかりとした愛情が窺えた。女性がそれを見て、目を細めて微笑んでいた。
 近くにいたその男女と同じ髪をした少年の頭を、女性が撫でた。なんてありふれた、どこにでもあるような些細な幸福。壊れてしまいそうなほど脆く、だが何より強固なものだった。

 場面が切り替わる。さっきまでと同じ病室。さっきまでの暖かさはゆるりと溶け、どこか重々しさを感じ、息が詰まる。シエルが見守っていた家族、女性はまたベッドに身を沈めていた。
 男が女性の手を取って、沈鬱な面持ちで女性を見ていた。女性が穏やかに、力なく微笑んでみせるが、男の顔は苦しげなままだった。男は悲壮感と決意を感じさせた顔のまま、きつく歯を食い縛っていた。
 シエルが見守っていた幸福は既に、崩れ落ちていた。シエルがおもむろに振り返れば、宮殿中の到るところから呻き声が耳に飛び込んでくる。重い悲しみの底にいた。

 シエルがまた振り返ると、今度は書斎にいた。陳列する本棚の隙間から、シエルは男を見守り続ける。
 鬼気迫る様子で、何やら探求を続けているようだった。血走った眼で、書物……恐らくは魔術書であろうか。その探求を続けている。
 赤子を抱かかえていたときの穏やかな様子はもう、なかった。どこか常軌を逸した何かを、シエルは感じ取って、肌が粟立つ。一心不乱に……何かに取り組む男に、シエルは恐怖の念を抱いた。
 この人は、何をしようとしているのだろうか。それが尋常ではないことは理解できた。

 シエルが一歩だけ前へ進むと、場面が切り替わった。
 目の前に聳えた教会を、神官が取り囲んで儀式を開始する直前だった。神官のみならず様々な立場の人々が祈祷を捧げて、祈っていた。その場面を包み込むのは神々しさではなく、禍々しさだった。
 さっきまで男が研究をしていたものと繋がる何かをなのか……それをシエルにはわかりかねていた。

 シエルが息を呑んで、教会を見上げた。
 ほどなく絶叫が教会の中から反響し、人々が騒ぐより先に闇が爆ぜて、全てを呑み込む。
 闇が轟くのと同時にシエルの耳は禍々しいものの、産声を聞いた。ただの叫びであるのに、肌を剣で切り裂かれたような鋭利さを感じ取る。シエルの全身を押し潰さんとする重圧は最早声ではなかった。
 蠢く闇はその場にいた全ての人を呑み込んで、喰らっていく。戦慄し、逃げ惑う暇すらなく、狂乱した闇は一つの生き物で、全てを包み込んでいく。
 シエルの思惟は闇に呑み込まれ、次の瞬間にはまた光の中にいた。今まで見ていたものに思いを馳せる。すると、シエルの目には止め処なく涙が溢れていった。

 今まで見ていたものは、全て自分に連なるものだと、シエルにはわかっていた。
 本当の家族。本来の自分の在るべき場所。
 泡粒のように遠ざかる光を辿ろうと指を伸ばして、想い出は遠く指の間を擦り抜けていく。もう、その一瞬は戻らない。その温もりはシエルには届かない。
 なら、今、生きている自分はどうすればいいのか。
 シエルの思いとは裏腹に、光は緩やかに遠ざかり、彼方へと消えていく。

 浮遊感と非現実感が消え去り、足にしっかりと石畳の堅い感触が伝わる。
 小さな部屋……闇の通路でも、光が導いた先でもなく、こじんまりとした何もない部屋だった。シエルが涙を拭った後、戸惑いと共に辺りを見回す。
 赤い髪の小柄な人がそこにいた。シェヘラザードが腕組をして、にんまりと笑った。

「よく、ここまで来たね」
 呆然としたままのシエルを余所に、シェヘラザードが言葉を続ける。
「合格。君には資質があるということを、塔が証明してくれた」
「……え? どうして……?」
 安堵より、戸惑いの方が大きく、シエルが思わず聞き返してしまった。

「賢者は……運命と血の導きで資質を得る。優れた魔法使いと僧侶の間に生まれた子のみが、賢者となることが出来る。生まれながらの資質……それが君にはあるということ」
 謳うように、シェヘラザードが告げる。
 さっき見た幻想の中で、男女は法衣のようなものを纏っていた。つまり、シエルの本当の両親は、魔法使いと僧侶であることを示している。運命はそう告げていた。

「わたしの中には魔族の血が流れているかもしれません……」
 自白染みた言葉を吐き出し、シエルがゆっくりと告げ、シェヘラザードが静聴していた。
「それを知らされて、ずっと怖かったんです。自分の今までの幸せが否定された気がして。でも、わたしは一人じゃないって言ってくれた人がいるんです。その人の近くにいれば、どんな恐怖も消えて……あの人はわたしにはないものをたくさん持ってる……でも、本当の自分をあの人に晒す勇気が、……なかったんです」
 喉に突っ掛かりながらも、たどたどしくシエルが言葉を紡ぐ。

「わたしに、賢者になれるだけの資質があるのなら、……変わりたい。もっと人に、あの人に本当のわたしを知ってもらうためにも」
 シエルが言い切って、顔を上げる。人に自分の弱い部分を晒すことが本当の強さであり、勇気なのだ。シエルが自分になかったものを、それを手に入れるために、破戒を覚悟した。

「よろしい。ならば、私はその覚悟に応えるだけ」
「……では」
「暫く私と付き合ってもらうよ。君が魔族の血を恐れるのなら、血を屈服させてしまえばいいだけ。光も、闇も恐れる必要はない。その両方を背負って前を見ればいい……」
 シェヘラザードが微笑んで、その手を差し伸べた。その掌を……しかと見つめて、シエルが力強くその手を取った。

 シェヘラザードが巻物を翳して、巻物が展開し、シエルとシェヘラザードを包み込んだ。
 一際強い光と奔流にのみこれ、シエルが一瞬だけ目を瞑る。光が治まり、目を開くとまた違う場所に立っていた。何もない……草木すら存在しない一面の荒野。屹立した岩の山と、吹き抜ける空だけの寂しい世界。
 そこに二人は立ち、温い風が二人の間を吹き抜けていった。

「悟りの書の世界。賢者としての才を磨くための場。私は君に賢者としての力を授ける……短期間だから、その分きつめでいくよ」
「―――はい!」
 シェヘラザードが意地悪く笑い、シエルが力強く頷きで返した。




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