深く、深く意識は落ちていく。 深淵へと。遥か遠い境界へとただ堕ちていく。彼がゆっくりと目蓋を開く。 蒼と青の境界線。二つの蒼の狭間を少年の思惟が彷徨う。水面を浮き沈みするような浮遊感と非現実感の間を、たゆたう。ぼんやりとした感覚。それに浸りながら、少年は認識する。 少年に傍らに寄り添う華奢な影。 その影は何故か、泣いているようだった。涙を拭おうとして指先を伸ばすも、陰に届く事はない。少年の指先はただ空を切るだけだった。 何故そんなに悲しそうなのか。 ぼんやりとしか認識できないはずなのに、それだけはこの胸を打つ。少年の傍らに、影はただ寄り添う。触れるようにして、水面をなぞる。それを辿って、アルトの視線も下に落ちて行く。 鏡面を見た。漂っているはずの、水鏡は、うっすらと皹が入っていた。 否、境界そのもの罅割れていた。青も、蒼も、全てが崩れ落ちそうだった。こんなにも脆い、壊れそうな蒼の世界の狭間を、少年が漂っている。 この場所が、こんなにも壊れそうだから、彼女は悲しそうなのか。 少年に過ぎったものを否定して、ゆっくりと、少女が首を振る。悲しげな眼差しが、少年に向けられる。少女の唇が動いた気がした。 ―――あなたが、壊れてしまいそうだから。 声にならない声が、思惟に届く。直接思惟に反響して、訴えていた。 傷痕をなぞろうとした少年の指先は罅割れていた。掌に、入った亀裂は少年の殻を薄く切っていた。まだ掌だけにしかないが、確かにそこに存在していた。 痛みはない、まだ。この傷痕が、これ以上広がったら、きっと――。 掌を握り締めて、少年が目を細める。 少女が目を細めて、やはり悲しげに見ていた。そっと、優しく硬く握られた拳に触れる。 その瞬間に、皹から何かが染み込んでくる。少年の意志とは無関係に。金色の、淡い光。傷痕から浸蝕するように、更に光が少年を満たしていく。 悲しげに、少女が唇を動かした。 何を伝えたいのかわからないままに。意識が遠退いていく。 知らない天井だった。 アルトが目を覚まして、身体を起こす。気だるい感覚を引き摺ったまま、まだぼんやりとした意識のまま、辺りを見回す。 典型的ともいうべきかダーマの病室は、必要以上に清潔だった。申し訳程度に花瓶が置いてあるぐらいで、無味乾燥としている。 何か、夢を見ていた気がする。 曖昧で霧散した何かは記憶を辿ろうとするが、よく思い出せない。 だが、言いようのない何かがずきり、と胸に走る。確固たる理由のない不安が急に沸き出て、弾かれたように手を見ようとして、力を込める。 何かに引っかかるように、手が思うようにならない。その理由はすぐにわかった。 シエルだった。アルトの手を握ったまま、ずっと看病をしていてくれていたのかそのまま、ぐっすりと眠っていた。仄かな温もりが、掌を通じて伝わる。 「良かった……」 アルトが安堵して、シエルの姿を見る。 見れば、シエルに大した傷はなかった。無事な姿を確認できて、アルトは肩の力を抜く。そのまま、起こさないようにゆっくり、ベッドに身を沈める。ん、と小さな声の後、シエルもぼんやりと顔を上げた。 「おはよう。ごめん、起こしちゃったかな」 「おはようございます。あ、……アルト君」 ぼんやりとした面持ちだったが、アルトの顔を見て目を瞬かせた。目を覚ましたシエルにアルトが笑顔で答える。すると、シエルもそれに笑顔で返してくれた。 「本当に―――よかった」 無垢な笑みを、シエルが見せた。 「アルト君だけずっと目を覚まさないから……本当に……」 本当に心からそう思ってくれているのだろう。こういうシエルの見せる表情は本当に幼く見えるが、それは同時にひどく魅力的な笑顔だった。 アルトは自分が最後だったことを知らされる。皆も無事なこともまたわかって、安堵した。 「どれくらい、眠ってたの」 「わたしはその昨日夜、看病している時には起きてたんですけど、そこからの記憶が途絶えてて……ご、ごめんなさいっ」 顔を真っ赤にしてわたわたとシエルが慌てて、質問の意味を取り違えていたことに気付くとより、頬を紅く染めた。そんなシエルの姿を見て、アルトはつい可笑しくなる。 「ありがとう。ずっと看病してくれて。あの魔族がダーマに襲撃してから、どれぐらい経った?」 「五日です。怪我をした方達ももう元通りみたいです」 シェヘラザードもいるし、優れた僧侶たちも数多くいるダーマでは、怪我人の治癒は時間は掛からないようだ。もう既に復旧作業に入り、ダーマはあれほどの騒ぎがあったのにも関わらず、日常を取り戻しつつある。 「もう、それだけ……」 目覚めたばかりなのか、アルトはあまり実感が湧かないでいた。 客室が宛がわれたのも、恐らく傷ついた人々を不安にさせないための配慮なのだろうか。仮にも勇者であるアルトが傷ついた姿を衆目に晒さないようにという。 それと、アルトが目が覚めるまで看病をしてくれたシエルに、胸に暖かいものが満たしていく。 シエルが、心から笑っている姿は久しぶりに見た気がした。ここ最近はずっと思い詰めたような、心ここに在らずといった顔をしていただけに、それはアルトには、とても嬉しい事だった。 しかし、その笑顔は曇り、シエルの視線は下におちていく。アルトが首を傾げて、そんな彼女の動向を見守る。何かを言いかけては噤むように、唇が戸惑っていた。 意を決して、覚悟を決めたようにシエルが短く深呼吸をして顔を上げた。シエルの真紅の瞳を覗き込んで、アルトもまたその視線を受け止める。 「アルト君は……味方になってくれると、言いました。とても、嬉しかったです」 少しだけはにかんで、シエルが笑顔を見せたが、すぐに真剣な面持ちで言葉を続ける。 「でも、ただわたしは守られているだけでいいのかと……アルト君の優しさに甘えているだけいいのか、迷っていたんです」 シエルの指先が、自分の胸元をぎゅっと、きつく掴んでいた。アルトもまた黙って、耳を傾ける。 「この前の戦いも、イシスの時も、テドンの時もずっとずっと、アルト君が戦っているのを見てきました。その度に思うんです。わたしに何が出来るんだろうって」 シエルの唇が言葉を探し、シエルの眼差しが、アルトを真っ直ぐに見つめていた。 「だってアルト君は戦うことを怖がっていたのに……まるで、戦うことに慣れてしまったみたいで―――」 シエルの瞳は悲しげな色をしていた。それを勇気付けるようと、アルトが微笑んだ。 「……ありがとう。でも、平気だよ」 「だって……」 「僕は僕に出来ることをしているだけだよ。誰かが悲しんだり、傷ついたりするのを見ることの方が辛い。それだけ。それだけなんだ」 「アルト、君……」 気が付けば、アルトの拳は硬く握られていた。意識してではなく、無意識の内に堅く、硬く。 握り締められた掌に、柔らかな指先が重なる。シエルのすべすべとした指先がそっと、アルトの握り拳を包んでいた。 シエルが何かを言おうとしていたが、悲しげな眼差しはそっと落ちていった。 「だったら…わ、たしは……」 俯いたままで、シエルの声は上擦っていた。 シエルの大きな瞳から涙が溢れ出てきていた。気付いたアルトが指先で拭っても、止め処なく流れる涙は次々と溢れて、止まることはなかった。 シエルは重苦しい表情で、俯いたままだった。 「わた、しは……強く、なりたい―――」 ゆっくりと、顔を上げてシエルが涙声で告げた。シエルの指先が、アルトの掌からゆっくり離れていく。 「色んなものに、負けないように。少しでも、アルト君の力になれるように。アルト君の味方でいられるように。だから、その、ために、わたしが、強くならないと……」 シエルの瞳から悲しい色は消えていた。シエルが自分の涙を拭って、強く告げる。 「出来るよ。きっと。ううん……絶対に」 「―――はい」 シエルが力強く、頷いた。 その表情にもう戸惑いと弱さはなかった。迷いを振り切った顔で、シエルが立ち上がる。 「約束、ですから」 シエルが短い言葉に、語り尽くせないほどの思いを込めたのを感じた。 シエルから止め処なく流れていたはずの涙はいつしか止まっていた。そこにはただ幼さを残しながらも、どこか強さを感じさせる笑顔だけが残った。 部屋を後にして、シエルがほんの少しだけ頬を綻ばせる。 ずっと看病をしていたが、元々傷は癒えているため、アルトが目を覚ましたら、回復は早いとは聞いていた。もう大丈夫だろう。 ほんの少しの時間でも、アルトと話すことが出来てよかった。 背を押してもらえた気がしていた。まだどこかで、引っ掛かりを覚え、惑う心がすうっと溶けるようにアルトと会話しているうちに消えて、なくなっていた。 記憶を頼りに、ダーマ神殿の通路を辿る。 シエルの目の前には書架の山……本棚が葬列のように連なり、進入するのを憚られる静謐が支配する。一人で来るには戸惑う部屋を、シエルは息を呑んで踏み入れる。 乱雑に散らばる書物の山の隙間を慎重に踏みながら、小柄な影を探す。 突然シエルが足を掴まれて、思わずきゃあ!と小さな悲鳴が出てしまう。恐る恐る見てみると、本の山の中から手だけが飛び出ていた。 シエルが血の気が引いて、慌てて本をどかしていくと探していた人が、シェヘラザードがそこにいた。ごしごしと眠け眼を擦って、シエルを見ていた。一安心して、小さく安堵した。 「あ、あの、大丈夫ですか!?」 「だいじょぶ大丈夫ー、いつものこといつものことー……部屋まで戻るのが億劫だから、ついついここで寝泊りをしてしまうのだよ」 ふわあ、っと欠伸を小さく噛み殺しつつ、シェヘラザードが崩れた本の山から抜け出す。 「それで、私に何か御用かな。お嬢さん」 シエルに問い掛け、シェヘラザードが目を細めて笑った。 「はい……質問したいことがありまして」 「何かな?」 シエルが緊張から息を呑んで、ぎゅっと胸元で両手の指を絡ませて、力を込める。 「ここ、ダーマでは転職が出来る、と伺いましたが」 真摯に、シエルがシェヘラザードを見やった。シェヘラザードも冷やかしはなく、真剣に彼女を見ていた。 「うむ、出来る。ダーマで定められた職の内ならな」 「……賢者、もですか?」 「もちろん、資質があれば」 シェヘラザードが即答で答えて、シエルが唇を引き締める。今、彼女は僧侶の職に僧侶は神の訓えを全うし、その生を捧げる。それが職を変えるともなれば、相応の覚悟が胸にはある。 信じる戒律に背いてでも、己が誓いのために破戒を覚悟していた。 アルトの顔が浮かび、決意を新たにした。穏やかな少年の力になりたいと、そのために何事にも揺るがない強い自分でいたいという一つの決意。 人から見れば笑ってしまうほど小さなものであろうが、シエルの胸に抱いたそれは、何事をも覚悟した一つの強さがあった。神の訓えよりも、今の彼女にとっては大きくなっていた。 だから、視線を逸らさずに真っ直ぐに、動じることなくシエルがそこに立っていた。 「残念だけど、賢者になるのを決められるのは私じゃあないんだ」 「……どういう?」 「ガルナの塔っていう聖域があってね。そこの最深部にある『悟りの書』という書物があるんだ。君が賢者に就けるかを決めるのは『悟りの書』だけだよ」 意図を図りかねて、シエルが小首を傾げる。ガルナの塔はメリッサから聞いていたため、それはわかるが、本が人を選ぶというのが今一つ理解出来ずにいた。 「本そのものに自我があるといえばいいんだろうか。資質のある者のみ、ガルナの最深部へと導かれる」 シェヘラザードはまるで、シエルの覚悟を問うているようだった。息を呑んで、シエルが見つめ返す。 「それが……賢者になるための、試練ということですか」 「理解が早くて助かるよ。賢者になれるかは運命と血の導きで決まる」 シェヘラザードの言葉に、シエルに流れる血が騒いだ気がしていた。 自らに流れる魔の側に属するかもしれない、恐るべきものを試される。 この血を、人ならざる者に試される。それはどれだけ恐ろしいことか、逃げ出したいことか、その恐怖がシエルの全身を満たしていく。シエルがゆっくり目を瞑って、それらに呑み込まれないように唇を噛んだ。 「……どうすれば、その資質はわかりますか?」 「簡単なこと。ガルナの塔を登ればいい。資質がある者は自ずと道は示されているはずだよ。君に覚悟があるのならば、いつでもおいで」 「あります。ガルナの塔へと行きます」 戸惑いはなく、一瞬全身を襲った恐怖を振り切って、シエルは即答で返した。それに怖じる事もなく、ただ頷きで自信の覚悟を示していた。 「許可は私から出しておくよ。『悟りの書』があるとこで待っているから、仲間たちと話し合ってから、明日ゆっくりおいでよ。資質があったとして、修練には時間が必要だしね」 「―――ありがとう、ございます」 感謝を告げたシエルの目には、自身の運命に立ち向かう決意があった。
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