声が聞こえた。

 どこか遠くから。

 ずっと空の彼方から。


 ゆっくりと目蓋を開く。彼の意識は青と蒼の狭間を漂っている。水の中を浮き沈みするように身体を浮遊感と非現実のぼんやりとした感覚が優しく包み、たゆたう。

 ―――私の声が聞こえますね。

 優しく、穏やかな声が反響し、声が思惟となって少年に伝わってくる。  思惟の主は目の前をたゆたう、鳥の影だった。それが、あの時、少年に語りかけてきた『何か』だと悟る。少年を包み込むように重なる巨大な影が青い海に映る。少年がたゆたう空と同じ色の瞳でその『影』を映す。

 ―――あなたは、とても優しい人。

 憂うような、悲しむような甘やかな声だった。思惟に反響した声はどこかで幼い少女が尋ねるような優しいものであり、娼婦が囁きかけるような色艶のある声にも思えた。
 まどろみの底で、青い世界を漂う影に少年が手を伸ばそうとするが、その手は虚空を掴むだけだった。存在はそこに感じられるのに、その場に存在し得ないような―――希薄な存在感ではあるが、何か畏れ多い圧倒的な存在感もまた同時に感じられた。
 『それ』が少年に優しく笑んで、ぼんやりとした感覚でその笑みを見つめていた。

 ―――あなたはその優しさ故に、何かを傷つける度に痛みを感じてしまう人。

 心の中を覗き込まれている感覚だった。だが、不思議と、不快な感覚は無く、すんなりとその思惟を受け取ることが出来ている。
 少年が声を発そうとしたが声にならなかった。大丈夫だよ、と言いたかった。あまりに悲しく心配する思惟に対して。

 ―――それは、どうして?

 『それ』に問い掛けられて少年が驚く。『それ』の思惟が少年に響くのと同時に、少年の思惟もまた『それ』に伝わっているようだった。
 自分は大丈夫。自分で選択した道だから。誰かから強いられた訳でもなく、自分で歩む事を選んだ道筋だから、どれほどの困難が待ち受けようとも歩んでいける。その道筋の中で誰かが笑ってくれるのであれば、それをいとうのにも、痛みを感じるのにも迷いも無い。だから、大丈夫。

 ―――どうか、忘れないで。あなたの笑顔を望む人たちもまた、いるということを。



 アリアハンは春の季節を迎えていた。山脈の雪解けの水が下流に流れ始め、穏やかな日差しが燦々と降り注ぐが未だに頬を撫でる風は冷たい。長い冬を越した蕾たちが我先にと咲き誇り、冬眠から覚めた動物たちが活発に野山を駆け回る。
 涼しい風が働く人々の汗を拭って、暖かな日差しが染物や洗濯物を乾かした。時折白い雲が吹き抜けていく青空の下、住まう人もまた活発だった。


 カーン……カーン……カーン……カーン……

 教会の鐘の音が、朝霧に溶けていく。
 耳に残っていた音色も、やがては名残惜しげに消えていく。波の響きが、磯の香りと共にその色を彩る。

 自室のベッドの上で寝ぼけ眼のまま、彼も鐘の音を聞いていた。身体を起こし、カーテンを開く。窓いっぱいに飛び込んで来たのはからっと晴れ上がった春先の青空だった。
 眠たい目蓋を擦って、ぐ、っと背伸びをする。暖かくなるにはまだ肌寒い。まだ温もりが残る掛け布団が眠気を呼び戻そうとするがそれをぐっと堪えて、ベッドから降りて着替え始める。一般的な布の服ではなく礼服に着替え、自室を後にし、一階へと降りる。リビングには祖父がもう起きて、新聞を読んでいた。

「おはよう。じいちゃん」
「うむ」

 新聞から視線を外さずに、ガルドが頷く。彼が、アルトが席に座り、朝食が出来るのを待つ。祖父が新聞を捲る音だけが耳に入ってくる。

「準備はできておるのか?」
「―――うん」

 アルトが頷く。今日、少年は誕生日を迎える。十六という年齢はアリアハンでは成人と見なされる年齢だ。ミドルスクールでの義務教育が終わり、より専門的な知識を求めて大学校に行くもよし、就業して仕事をし始めるのもよし、アリアハンを出て異国へ旅立つのもよし。
 全て当人の責任の中で自由な行動が許されるようになる。己の判断で行き、それぞれの人生を歩み始める。

 リビングから裏庭が見える。耳を澄ませば風の音と共に甲高い木刀の打ち合いが聞こえてくるようだ。かつて兄と裏庭で修練を重ねていた月日が遠い思い出になるのはあっという間であった。
 あれから二年の歳月が過ぎ去った。あれからアルトは自身で志望し、勇者への道を志した。高水準の教育と修練の日々が続き、幾度なく血反吐を吐いたこともあった。それでも課せられた試練を乗り越えた。そんな激動の月日を重ねた賜物か、痩せた身体にはすっかり筋肉が付き、逞しくなった。無駄な筋肉が付かなかったため、華奢という印象を拭うには至っていないが。

「おはよう。アルト」
「うん、おはよう」

 クレアに声をかけられ、それに挨拶を返した。テーブルの上に焼き立てのパン、海老や大きなオマール貝がまるまると入ったスープ、レタスやトマトで彩られたサラダが並べられ、朝食となる。

「いただきましょう」

 家族全員で短い時間、瞑想し、朝食となる。ちぎったパンをスープに漬して口の中に頬張る。コンソメの塩気が口に広がり、小麦の風味が鼻腔に吹き抜ける。朝食を咀嚼しながら、三人での静かな空気の中、食事を続ける。

 否が応でも視界に入る。空席の椅子が、二つ。父オルテガと兄アゼルスの席。光に消えた兄の姿。魔族と戦い、それでも最期まで駆け抜けた兄の姿を忘れるわけがない。鬼籍に入っても、悲しみが拭えぬ時間で過ごすのをきっと兄は良しとすまい。
 それどころか叱咤するのだろう、とアルトがぼんやり思う。お前にはお前のやるべきことがある、と背中を叩く―――それが兄の気性だというのは重々理解していた。
 朝食を終えて、椅子から立ち上がる。

「じゃあ、行ってきます」
「うむ、気をつけてな」
「旅立つのは三日後になるんでしょう?」
「うん、手続きの関係上どうしてもね」

 アルトが成人の儀を行い、旅立つ事になるのは三日後となる。国外のギルドの援助の手続きを受けようと考えるのであらばアリアハンのギルドに手続きを済ませなければならない。だが、成人の後に申請をすることが許可されるため、最低でも三日手続きに時間がかかる。アルトが旅立ちは三日後と決めたのはその為だった。

「王様に粗相の無いように気をつけてね」
「うん、わかってる」

 アルトがクレアに頷きを返してから、家を後にする。


 穏やかな日差しが降り注ぎ、薄着になるにはまだ肌寒い冷たい風が頬を吹き抜けていく。日差しが白の石畳に影を落として、白と黒のコントラストを成す。見上げれば空の蒼が広がり、純白の通路には花壇に植えられた花々が赤や黄色の華々しさで彩り、通路から覗く並木道に植えられた項垂れた大樹の枝が緑の青々しさで彩った。

 人々の雑踏が横切るようになり、様々な商店や工房での生き生きとした仕事、通りすがりの人々の道端会議、喫茶店や酒場での他愛ない雑談などの人々の営みの活気が賑やかな音として行き交う。舗装された道を踏む硬い音が一定で軽やかに弾ける。
 そうした色と音で鮮やかだった場所を抜けて、少年が見上げる。アリアハンの王城に着いた。思えば城に足を踏み入れるのは、あの日以来だ。厳かに少年を見下ろす孤島に聳える城は少年を圧倒する。衛兵に謁見予定と名を明かすとすぐに入場許可が下り、アルトは中に入る。

 真っ赤な絨毯を踏み締めて歩く。時折、兵士が敬礼してくるのにアルトが驚いていた。真っ直ぐに歩くと二階へと続く階段があり、上がっていく。
 視界が開けた先は、謁見の間だった。天井には絢爛豪華なシャンデリアが煌びやかに輝いて、大理石の石畳の上の真紅の絨毯が大広間一面に広がっていた。正面には既に王座に王が座っていた。王座の両脇には大臣と王宮仕えの占い師が控えていた。
 指定された場所でアルトが傅くと、穏やかな眼差しを現アリアハン国王サルバオ十世が向けた。肌は日に焼け体格が良く、武人然とした空気を漂わす王は気さくで、親しみやすささえも感じる。

「よくぞ来た。アルティス・ヴァールハイト」

 温和な笑みと共に、少年を歓迎した。まじまじとアルトを見つめる視線に、少年は少しだけ照れ臭さを感じた。

「ふぅむ。まだあれだけ小さかったそなたが成人の儀を行うために、わしの前に現れるとは月日が過ぎるのは早いのう」

 豪快に王が笑い、アルトは傅き視線を下に向けたまま相槌を返した。祖父も父も王宮勤めであったため、数度王と顔を合わせたこともあるが、相変わらずのあまりに気さくな王の様子にアルトが面食らう。
「陛下。今は成人の儀の最中です。思い出話は終わった後がよろしいかと」
「おっと……すまんすまん」
 好々爺然とした大臣に咎められ、気さくな面持ちを王が消し、厳かな表情となる。

「アリアハンを出、旅に出るというそなたの意思に変わりはないか?」
「―――はっ!」

 即答で、アルトが返答する。それに王が力強く頷くと、今度は宮廷占い師が言葉を引き継いで、話し始める。

「吉兆の兆しを見た」
 静かに語る占い師は、八十を過ぎた妙齢の老婆であった。

「お告げとして剛なる者、疾き風……その二つの血筋を引きし者が魔を討ち払うと託宣が下された。即ちそなたが次代の勇者として相応しい器だと。かつてのそなたの血筋が選ばれたように、そなたもまた神に選定されたのだ。アルティスよ」

 その神託にアルトが気持ちを引き締める。オルテガやアゼルスと同じ場所まで立ったことを自覚する。多くの希望を束ね、力無き人々の剣となり、盾となる―――かつてのオルテガやアゼルスのように。

「正直、わしは心苦しく思うておるのだ」
 王が沈鬱な表情を浮かべていた。

「そなたが勇者と託宣が下されたときにわしは心が引き裂かれたようだった。勇者とは希望の器そのもの。多くの人間の希望を拒もうが惹きつける……オルテガが旅に出た時、支援はあれどあやつに全てを託すことになってしまった。
 じゃがわしらは安穏としているだけで何も出来なかった。一人に全てを押し付け、結果オルテガを死地に追いやってしまった……悔やんでも悔やみ切れぬ。アゼルスやアルティス。そなたらも、また」

 王とオルテガは個人的に親しかったと聞いている。オルテガがアリアハン王宮に勤めていた時から歳が離れた兄弟のように仲が良く、主君と臣下以上の関係であったことをアルトは知っている。オルテガの死を誰よりも嘆いたのもまた王であった。

「今度こそは全軍を挙げ、そなた一人に全てを背負わせるのではなく共に戦うべきなのだ……それすらも出来ぬとは」
 唇を噛み締め、王が悔しげに言う。今、アリアハンに魔王に対して軍を挙げる余裕など皆無であった。

「そなたも我が国の現状は存じておるな」
「……はい。サマンオサ籍の軍艦がルザミ海域でアリアハンの巡廻艇に砲撃したと……」
「その通りじゃ。幾度なく対談の場を設け様としたが突っぱねられるばかりだ」

 この二年の間で状況は大きく変わり、アリアハンとサマンオサは互いの動きを牽制し合い、魔王に対して軍を挙げることができなくなってしまった。
 サマンオサの主張はルザミ海域は我が国の領海だと主張し始め、だがルザミ海域はアリアハンの領海であることに間違いは無い。主張するより先に砲撃を仕掛けてきたのはサマンオサ艦隊だった。止むを得ずアリアハン艦隊が防衛に応じた。幾度なくぶつかり合いアリアハン軍は消耗をし続けている。

 狙いはルザミ海域に存在する稀少鉱物ミスリルの所有権の独占であろう。鋼を凌ぐ硬度を持ち、マナが宿り易い性質を持つため金属に呪文を宿すことも可能だという。ルザミ海域の独占を諦めていない以上、サマンオサ軍が進軍をしてくる可能性は高い。例え魔王討伐にアリアハン軍を挙げたとしても、その隙をサマンオサがついてくるだろう。だからアリアハン軍は魔王に対して軍を出せずにいた。

「魔王という共通の脅威が現れても人と人とが争っておる。嘆かわしいことだ」

 憂いた眼差しから熱が宿り、アルトを真っ直ぐに見据える。その熱意に、アルトもまた応える。

「じゃが、だからと言って世界の脅威に対して手を拱いているわけにもいかん。それに加え、魔族に奪取された宝珠も奪還せねばなるまい。古に献上されたもので由来もわかりかねるが国宝級のものだ。魔族に対して後れを取ったまま敗北を認めるわけにはいかん」

 あの時、エビルマージと名乗った魔将が持っていた掌と同じ大きさの神々しい輝きを放つ宝玉。死闘の場からは結局発見されず、あの光の中に消えてしまった。だが、奪われた強い熱で焼き尽くされたのであれば痕が残る。その痕跡すら発見されなかった。
 あの、魔族はまだ、生きている。
 銀の宝珠を奪い、あの場を撤退し、この瞬間もあの男は呼吸を続けている。

「―――はい」

 アルトがぎり、と拳を堅く握り締める。また、あの魔族が自分の目の前に立ち塞がるのであれば戦うのみ。兄の仇を討つ……という憎しみではなく、誰かを脅かす存在であるのであれば。
 怨嗟に塗れて戦うなど、兄が望むはずはない。だから、アルトもその気持ちで剣を取るつもりはなかった。

「その決意に二言はないのであれば、アルティスよ」
「ありません」

 即答で応えるアルトに、王が力強く頷く。王が侍従に合図をし、二人の侍従が何かを持って、アルトに近づく。二人の侍従がアルトに手に持っていたものを差し出す。片方は白銀の円冠…その中央に新緑のエメラルドがはめ込まれていたサークレットを、もう一人はサルバオ王家を示す獅子の紋章が柄に刻まれた鋼の剣を持っていた。

「それをつければアリアハンの国家から選出された勇者の証となる。我が名…サルバオ十世の名の元にそなた、アルティス・ヴァールハイトを勇者と任ずる」

「御意に」

 アルトが忠誠を示し、敬礼を取った後にサークレットを静かに被り、剣を握り締める。冷たい感覚が額を撫でたがすぐに消え、額に馴染んだようだった。
 勇者アルト。アリアハン国王サルバオ十世の名において勇者として認められた瞬間であった。




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