深い深い森の深奥にまた、アルトたちが踏み入れる。 エルフたちの里で迎えたのは、また差別と軽蔑の視線だったが気にも留めずに歩き続ける。エルフの聖域の最奥に踏み入れた瞬間に、衛兵たちがアルトたちを押し留めようとするが、すぐに姿を現した女王に止められる。 「ここに姿を姿を現したということは、つまり夢見るルビーを奪還したということなのですね」 「はい、ここに」 一礼をした後、小包をアルトが差し出す。女王がそれを受け取って中身を確認する。姿を現した六角形の宝玉はどこか歪んだ光を放ちながらも神々しく美しい紅玉であった。手に取った女王は気にせずにしげしげと紅玉を見つめる。 「確かに。これは奪われたはずの夢見るルビーです」 確認を終えて、鋭い眼差しはそのままにアルトたちを見下ろす。 「取り戻してくれたことは感謝しますが、私は人間を好きになったわけではありません」 超然的な態度のまま、女王が断じた。悲しみで凍りついたような顔はそのまま、凍てついた心を表しているようでもあった。娘を奪われた悲しみ、裏切られた悲しみ、それが凍りついたまま氷解することなく、時は流れ、今日に至った。 だが、それを奪われたのは、女王だけではない。 むしろ、女王が奪ったものも、また、大きかった。それはその掌には決して戻らないことに気付かない。 黙したまま、視線を下に向けていたメリッサだったが、以前のように視線を隠してはいなかった。時折、何かに対しての怯えを見せたがそこから逸らすことなく受け止めようとしていた。 隣で膝をつくメリッサにアルトは肩を軽く叩き、はっとした面持ちで顔を上げてアルトの顔を見つめる。戸惑いと覚悟が綯い交ぜになったような顔にアルトが頷いて促す。少しだけ目を閉じて、覚悟を決めたようだった。 躊躇いを捨て、はっきりと女王を見つめていた。真っ直ぐに逸らすことなく見つめていた。 「あ、あの!」 女王が一瞬だけ、メリッサを一瞥した。気にすら止めず答えを返す様子はなかった。突き刺す氷の威圧を受け止めて、彼女は立ち上がって、しっかりとした足取りで玉座まで歩み寄る。 衛兵が静止しようとするが、女王が無言で留める。玉座の前で立ち止まったメリッサと女王の視線が交錯する。 「これ、読んでください」 メリッサが突き出したのはぼろぼろのくたびれた一通の手紙だった。それを女王が手にとって中の手紙に目を通す。 手紙は洞窟の奥で見つけたものだ。夢見るルビーと共に小包の中に添えられていたものだ。 いなくなったエルフ……アンから母やメリッサに向けて綴られたものだった。 綴られていた内容は彼女の行き先だった。 アンはどれだけ説得しても許してもらえず、人とエルフが交わってならぬという理そのものに磨耗し、疲れていった。 愛する人と生きることを許されず、生んだ我が子と引き離された、疲れきった心に何かが崩れ落ちたのだろう。全ては掟、理、種族間のどうしようもない何かに……それに縛られ続ける世界に生きることそのものをいつしか諦めるようになっていた。 幾度説得してもわかってもらえず、ただのちっぽけなどこにでもあるものを望んだだけでしかないのに、それすら許してもらえず、その心の疲労が彼女を突き動かすようになっていた。 どれだけの月日が経ったかはわからないが、掟そのものと言える秘宝『夢見るルビー』を奪い、逃げた。逃避行の最中、同じくわかってもらえぬ村から逃げ出した青年と再会し、そして、 「地底の湖に身を投げたと……そんな……ことが……」 女王の冷たい無表情の仮面にひび割れていったようだった。みるみる表情が青ざめていき、声は震えて、絞り出すのが精一杯という様子だった。 女王の手が震え、弱く握られる。 この世で許されぬ愛なら、せめて天国で結ばれることを、選択した。娘の決断を知り、狼狽を隠せないようだった。 無理もない。生きているということを今まで信じ、騙されているだけだと信じ続けてきたものが砕かれた。砕かれてしまった。戻ると信じていた笑顔は、もう二度と戻らない。 アンという女性はなんてことはない、ただ選んだだけなのだ。 娘でもなく、エルフの集落を束ねる血筋の姫でもなく、彼女の娘のメリッサの母でもなく、ただ女であることを選び、それが生きている限り、その願いが叶わないから、命を絶った。 その娘の結末を知り、メリッサに言葉はなく、女王は顔面を蒼白にして虚ろに下を向いたままだった。 「私が…許さなかったばかりに……」 うわ言のように女王に言い、過去の自分を悔いているようだった。 掟を守ろうとしたのは、種族を束ねる長としては無理からぬことだ。一度崩れた理は意味を失い、それまで守ってきた秩序まで崩れてしまうからだ。 それでも、縛られ過ぎた掟は、新しい風を殺すことになる。エルフと人。それまで交わることのなかった道筋が一つとなり、新しい可能性を提示するように。 誰も何も言うことはできなかった。 女王は項垂れ、メリッサは下へと視線が落ちていった。アルトの位置からはメリッサの表情を窺い知ることは出来なかった。だが、メリッサの指先は堅く握られていた。 「ノアニールを元に戻したいんです」 メリッサが告げて、女王が顔を上げる。メリッサの視線は真っ直ぐに女王を射抜いて、その瞳には悲しみは宿っていなかった。 「……そう、ですね」 蒼白のまま、女王が言い、衛兵に命じた。エルフの衛兵の一人が何かを持ち、それを女王に渡す。会釈をした後、元の持ち場に戻っていった。 「その目覚めの粉を持って、村へとお戻りなさい。そして、呪いを解くのです。アンもまた、それを願っていることでしょう」 「…ありがとう」 メリッサが小袋を受け取り、礼を述べる。女王を一瞥した後、メリッサが振り返り、その場を後にする。どこかメリッサも辛そうであった。 「……私を、私たちを恨んでいるのでしょうね。あなたは」 女王が項垂れたまま、ぼそりと呟くように告げた。その声にメリッサが足を止め、振り向くことなく立ち止まる。 「許してもらおうなどと言うつもりはありません。ただ……」 「ただ、あたしはあなたと話が出来るようになりたいだけ。それだけ。…だってあなたは血の繋がったおばあちゃん、だし」 「…あなた、は」 呆然と女王が、メリッサの姿を真っ直ぐに、今までいなかったように扱っていた娘の忘れ形見を、初めてその瞳に映していた。 「ありがとう…………メリッサ」 それだけ告げると、メリッサは歩き出して振り向くことはなかった。背後から女王の声が響くことなく、歩き出していた。 朝早く穏やかであった日差しも、正午を過ぎてすっかり熱を帯びる。 とはいえ気候のせいかあまり暑くはないのだが。 「あー、あそこにいると堅苦しいのよね。空気もぴりぴりしてるしさ」 メリッサをうーん、と思いっきり背伸びをしてから深呼吸をする。 「お母さんとお父さんのことなら、あんまり気にしてないから」 アルトたちの心境を読み取ったのか、メリッサがぽつり、と漏らした。 生き別れた両親の顔を見る機会は、もうない。冷たい湖底の底に消えた彼らの顔を知らず、彼女はこれからも生きていかなければならない。 「それにさ、なんとなく覚えてるんだ」 メリッサが陽光の中で、自身の身体を抱き締める。 「温もりっていうのかな。…ぼんやりとしか思い出せないけど」 記憶の底にある母の温もりを思い出すように、少しだけメリッサの口元が緩んだ気がした。微かな、ほんのわずかな記憶でも、残ったものを確かめているようだった。 「まあ、言いたいことは色々あるけどさあ。子供いるんだから、二人で先走るなよとか。残される側の身にもなってみろっつーの」 ぶすっとした面持ちで、メリッサが言う。 「メリッサ、無理しなくても…」 「湿っぽいの苦手だしね。それになんとかだけど、前向けそうだし」 シエルがメリッサを案じるが、からっとした顔だった。確かに不思議とメリッサの表情はどこかすっきりとしていた。 「まあ、お前がいつまでもそんな調子じゃ、こっちも何か調子狂うしな」 「もーちょっとあんたはデリカシーってものを覚えなさいよ」 呆れ混じりにメリッサが嘆息して、ルシュカがにっと笑った。ルシュカなりにここ最近、元気のなかったメリッサを心配していたようだ。 「ずっと、ノアニールの呪いを解くことだけを考えてきたから、これからどうしよっか」 遠い空を見上げて、メリッサがぽつり、と呟く。 魔法使いになったのも、今まで旅をしてきたのも、全てノアニールを呪いから解放すると言う意思で生きてきた。その願いは、もうすぐ叶う。彼女の掌で握り締められてる目覚めの粉の効力で呪いの楔は消え、廃れていたノアニールの活気も直に蘇るだろう。 だが、そこには、彼女の居場所はない。 目が覚め、眠りから覚めた人々は眠らされたその時で時間が止まっている。当時赤子だったメリッサの顔を知っている人間はおらず、過ぎ去った年月を知り、人々もまた困惑するだろう。まだほんの少しだけ時間がいる。エルフの側にも、ノアニールの人々にとっても、まだ。 「じゃあ。僕たちと一緒に旅をしない? メリッサさえよければ、だけど」 「あんたたちと旅、かあ」 まんざらでもないように、メリッサが言う。 ハーフエルフの少女としてではなく、メリッサとの旅がこれからもしてみたいと思っていた。どこまで行こうとも彼女は、彼女でしかないのだから。 しばらく答えを探しあぐねているようだったが、すぐに少しだけ前を歩いていたメリッサが振り向く。 「いいよ。もう少しだけあんたたちに付き合ったげる」 「うん。…よろしくね」 「今、いる場所が自分の生きる場所、だったわね。だったらこれから少しの間かも知れないけど……ここがあたしの居場所にしたいって思えるから」 アルトが手を差し伸べて、その手に柔らかな感触が手に触れる。メリッサの華奢な指先はしっかりと握り締められていた。 影で覆われた森の陽光が二人の真上から降り注ぐ。はっきりと見えたメリッサの目を真っ直ぐに見据えて、アルトが思わず笑って、それに釣られたのかメリッサもにかと笑ってみせた。 「これからもお願いしますね」 「またうるさいのが一緒か。まあいいけどさ」 シエルがメリッサの手をとって、ぶんぶんと思いっきり振って歓迎し、ルシュカが悪態をつくが本心からのものではないとわかっている。 賑やかな日々は、きっとただ待っているだけではこないのかもしれない。 選択し、歩き続けていった先に、どの場所でもきっとその日々に出会えたのならば、きっと楽しいものになるであろうから。 きっと、メリッサは選択したのであろう。自分が、それでもいいって思えるような、そんな日々を。それが自分たちと一緒の旅だと思うと、アルトは少しばかりこそばゆかった。 少しだけ離れた、木陰の下からバーディネがそんなアルトたちを見つめていた。それにアルトが振り返って小走りで駆け寄る。 「バーディネ…?」 アルトが声をかけると、影射す木陰に立ったバーディネが見やった。 「お前は…生きてる限り、そこが自分の居場所だって言ったな」 「…うん」 「だが、それでもそれに耐えられない人間だっている」 「どうして」 アルトが真っ直ぐに、バーディネを見据えて鋭い眼差しが射抜く。それに物怖じせずに、アルトが見据える。 「世界は、こんなにも綺麗なのに」 「世界が醜く見える人間だっている」 「そうだね。そうかもしれない」 バーディネの意図を図りかねるが、それでも彼のアメジストの瞳を真っ直ぐに見つめる。どこかで悲しみを感じさせる眼差しを受け止める。 「それでも、僕は自分の心次第で変わってると思う。それだけで醜くも、美しくもなるのが世界だって、思うから」 それは理屈じゃなくて、心からそう信じたい。空の蒼も、深緑の緑も、人の心根だって見る人間で変わってくるものだと、信じるという言葉は容易いだけかもしれないけれど、それでもアルトはこの世界も、人々も美しいと思いたかった。 アルトが見据える先には、シエルやルシュカと共に笑うメリッサの姿があって、アルトが顔を綻ばせる。 その足元には、夏にしか咲かない赤、黄色、白などの花々がそよ風に揺られて、そっと咲き誇り、花びらが青空へと舞い上がっていった。
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