「ビビアンの力量は十分なんだがな…」 エドがどこか諦め混じりの溜息をつき、軽く嘆息する。事情を知らないアルトは小首を傾げるより他なかったが…。 エドがちら、と楽屋を一瞥してアルトもそっちに釣られる。 「前回と同じく、今回もお断りさせていただきます」 よく通る、透き通るような声が耳に届く。楽屋で劇団長と話すビビアンの姿があった。真摯な面持ちで告げられたのは鎮魂祭への辞退だった。その表情は謙遜や未熟からではなく、何か確固たる理由があるようだった。 「やっぱりかい……あれから時間も経ったし、少しは気持ちも変わったかと思ったけど……」 「申し訳ございません。鎮魂祭の踊り手として選ばれるのは光栄なことですが、私には……」 ビビアンが言葉を濁して、歯切れが悪く応える。 「イシスの王宮に迎えられるより、私はここで…アッサラームでやっていきたいと思っていますので」 視線をビビアンが逸らした時に、アルトと目が合い、彼女が罰が悪そうにまた視線を逸らした。 劇団長もビビアンの気持ちを汲んだのか、それ以上の説得はなかったようだった。一礼をして、楽屋から立ち去ろうとする。 「ビビアンさん!」 それを……リーシャが呼び止める。それにビビアンが振り向き、少しだけ硬く笑みを作ってみせた。 「鎮魂祭にまた出ないって……」 「ええ……私のわがままなのはわかっているのだけれど。どうしても、ね」 ぎこちなくビビアンが笑みを作り、リーシャが表情を曇らせる。リーシャが何かを言おうとするが、結局言葉にならず、言葉をつぐんでしまう。 「で、でも私は最高の舞台で踊るビビアンさんの姿を見てみたいんです!」 「ごめんなさい…」 強く、真っ直ぐに視線を見て言うリーシャ。それに伏し目がちにビビアンが視線を下に向ける。彼女が背を向けて楽屋に向かうのを、リーシャがどこか悔しげな目で見ていた。 アルトはその状況を見て、驚きを隠せずにいた。 踊り手として最高の舞台はそこにあるのに、それを頑なに拒むビビアンの姿を見て、舞っている最中に感じた影の根はそこにあるような気がしていた。 宿は既に予約されていた。大通りの東の端にある小さな宿を商隊で貸し切って、泊まっている。 夜の帳が下りた後も街は眠る様子はなく、賑やかなままだった。行き交う人々の喧騒は途切れることなく、行き交い、夜更け過ぎだというのに未だ市場の賑わいは活気に溢れる。 アルトはというと、そんな雑多な街の喧騒をぼんやりと樽に腰をかけて眺めていた。何のことはない。ただの見張りを頼まれたというだけだ。街中とはいえ不逞の輩に馬車の商品や馬を奪われるかもわからない。念には念をということらしい。 アルトの他にはグスタフと商隊で雇われた傭兵が樽をテーブルに見立てて、チェスをしているようだった。彼らと他愛もない会話をしながらも、緩やかな時間を過ごす。 特にチェスの心得があるわけでもないアルトは手持ち無沙汰な時間を過ごす。 だから、アルトは空を仰ぐ。雲の切れ間から漆黒の夜空が広がり、月明かりが喧騒で溢れる町並みを照らす。 果てしないのない夜は地平線より向こう、東の地平よりもその先へとどこまでも広大であった。星という光が互いを照らしあい、無数の煌きに包み込まれた空は、星雲と呼ぶに相応しいものだった。 「こんばんは」 声をかけられて、アルトが視線を大地に下ろす。そこにいたのは艶やかな腰まで伸ばした黒髪と、それに見合うだけの神秘的な美貌を持った美女――ビビアンだった。 「星の綺麗な夜ね」 「え、―――はい」 アッサラーム一と謳われる踊り子から声をかけられて、アルトもさすがに戸惑いを隠せなかった。どぎまぎと彼女を見返してしまい、それにビビアンが目を細めて、柔らかに微笑んだ。 「昼、リーシャと一緒にいた子よね」 「は、はい」 「ごめんなさい、驚かせてしまったかしら」 「は、はい。驚きました」 ほんの一瞬だけ、目が合っただけの自分を覚えていたというのは嬉しくもあり、気恥ずかしくもあった。後ろでチェスをしていた二人も気付き、ビビアンが愛想よく手を振った。 「昼の舞台、見ました。すごい、舞台だったと思います」 「あら、ありがとう。ええと…」 「アルティスです。仲間からはアルトって呼ばれてます」 「じゃあ、アルト君と呼ばせてもらおうかしら。よろしくね」 にこり、と目を細めてビビアンが笑って、それにアルトもはい、と頷いて笑みを返した。 ビビアンが隣の樽に腰をかけて、一息を付く。彼女が口の中でアルトの名前を幾度か転がして、素敵な名前ね、と微笑んだ。 思わずビビアンのすらりとした四肢に目がいき、思わず視線を逸らす。磨き抜かれた彼女の四肢は美しいという賛辞以外思いつかない。踊り子のショールがそれを際立たせているせいか、足が栄えてより美しく見える。 「凄い、舞台だったと感じるの、ですけど」 言おうか言うまいか僅かにアルトが逡巡する。こうして、ほぼ初対面の自分がこれを口にするには憚れるが、それでもどうしても引っかかりを感じて、言葉にする。 「どこか、影というか憂いというか……そんなようなものがあったように見えました」 さすがに怒られるだろうか。それを言葉にして少しばかりの後悔を感じつつもおずおずとビビアンを見やる。 彼女の視線は下へと落ちていった。だが、その言葉自体を気にした様子はなく、足で砂をなぞるように幾度も幾度も円を描いていた。 「聞いてはいけない質問でしたか…?」 「ううん、そんなことないわ」 ビビアンが首を横に振り、アルトの目を見つめる。彼女の流し目と吸い込まれそうなアメジストの目にどぎまぎとしながら、アルトも彼女を見る。 「僕も……以前は楽師になろうと考えたことがあるんです。かじった程度ですけど」 このアッサラームを包む雰囲気はかつてアルトが目指した道をどうしても思い出させる。踊り子たちの妖艶な舞い、それを奏でる楽師たちの音色……アルトが、勇者としてではなく楽師となっていればこの町にも違った形で訪れていたのかもしれないと。 「そっかあ」 快活に笑うビビアンの横顔からは、舞台の影など微塵も感じられなかった。 「でも、私、もしもって話好きだけどなあ」 「もしも?」 「そう、もしもの話」 ビビアンがあっけらかんと笑う。それにアルトがぽかん、とした顔で見つめる。 「もしもアルト君が戦士じゃなくて、楽師でここに来たんなら君が私の舞台を奏でていたのかもしれないね」 「ええ……? でも、もしそうだったらいいな、って思えました」 それにビビアンがでしょう?とくすりと悪戯っぽく微笑んだ。 もしも、もしもこうだったらという可能性の話。 今ある現実ではなくて、少しだけ今と違う形になった現実。 そこには今まで出会ってきた人たちとも違う出会いがあって、別れがあって、少しだけ今ある世界とは違う救済があって。 栓のないことでもある。ただ、そこに思いを馳せると、もう既にいない人たちもそこにいる……ほんの少しだけのもしもの希望。 「私ね、好きな人がいたの」 空を見上げて、ビビアンが目を細める。遠い、眩しい世界を見つめるように。 「その人はイシス王宮の戦士で、ここには護衛の名目で滞在してただけだったけど、とてもたくましくて、勇敢で、だけど子供のように無邪気に笑う人だった」 ビビアンが過去を辿るように、目を細めて追憶する。アルトはそれに黙って耳を傾けている。 「初めて私の踊りを褒めてくれた人だったわ……あの人が私を支えてくれたから、今の私がいる…本当に、あの人のことを愛してたんだって、実感できる自分がいる」 空を見上げて、ビビアンが目を細めた。その横顔はどこに消えてしまいそうに感じてしまうほど……透明で、儚げであった。 「あの人は戻ってこなかった。イシス軍の仕官としてネクロゴンドの遠征に旅立ったっきり、二度と戻ってはこなかった……」 ビビアンがぎゅっと、膝のショールを軽く握り締めた。胸元に輝く金のネックレスは、鈍く光る。その戦士の思い出が未だ褪せていないのを証明するかの如くに。 ネクロゴンド遠征……アルトにとってもそれは忘れ得ぬものだった。 父オルテガもまたその戦いに赴いていたのだから。人伝に聞くより他ないものだったが……そこで見た焦土と化したネクロゴンドの大地の凄烈さと魔軍の脅威は人の記憶に残った。 その苛烈なる戦場で数多くの命が奪われ、その失われた命の一つ一つに悲劇があった。ビビアンのこともまた、その中の一つだ。一つでしかない単位だが…失われた人間にとっては決して、決して忘れることが出来ず、心に深い傷となって、刻み込まれる。 アルトも短く、目蓋を伏せる。 思い起こされる記憶は、誰かがいなくなった記憶。 そこにいて当然だった誰かが唐突にいなくなる。それが……どれだけ、残されたものに影を残すのか。それが思い出に変わるまでどれだけの時間が掛かるのか。 記憶に残る最後に見た人々の歓声に包まれた父の姿。 最後までどんな相手でも勇敢であり続けた兄の背中。 その記憶を辿って、ビビアンの心に今も残るものが、アルトにもまたわかる気がした。過去は消えない。記憶にその人がい続ける限り、その時間は流れゆく。絶えることなく。 それでも、いなくなった人が望むことは。 「あの人と……私はアッサラームで待っていると約束した。もう私のエゴなのはわかってる。それでも、私はここで……」 「待ち続けるだけじゃ、変わらないと思うんです」 え、とビビアンが首を傾げて、アルトを見やる。 時を止めることは出来る。 だけど、それでは誰も救われない。止まった俯瞰風景は自分から世界の色を奪って、足を絡め取るだけだ。 現実は、時間は、今も刻々と刻み続けているのだから。 「生意気なことを言ってすみません。でも、その人が願ったのはきっと……最高の舞台で踊るビビアンさんの姿なんじゃないか、って思えるから」 アルトの藍色の瞳は、ビビアンの姿を映して、真っ直ぐにその姿を見据える。 「悲しみを受け止めて、でも前を歩いていかなくちゃいけない時があります。どんだけ胸が痛くても、苦しくても過去を今から目を背ける理由にしちゃいけないから……」 じわり、と痛む胸の痛みに感じつつ、それでもアルトが紡いだ。 自分はただの知り合ったばかりの、一介の冒険者に過ぎない。こんなことを口にするのはただのお節介で、人の心に土足で踏み入る失礼なのかもしれない。 それでも、アルトは真っ直ぐに、ビビアンに自身の思いを伝えずにはいられなかった。 目を瞬かせて、ビビアンがアルトを見つめていた。 その眼差しに憤慨や怒りといったものはなかった。それどころか……どこか穏やかな眼差しでアルトを見つめていた。 目を細めるビビアンに、むしろアルトが驚いたような眼差しで見つめて彼女がくすり、と微笑んだ。 「その通りかも、しれないね」 ビビアンの指先が、アルトの頬を柔らかくなぞり、すべすべとした指先が少しだけくすぐったかった。 気恥ずかしさと照れくささが綯い交ぜになったものを感じながらも、アルトがまじまじとビビアンを見つめる。愁いを帯びた眼差しはとても色っぽく、過去への郷愁とアルトの輪郭をなぞる指先は誰かとアルトを重ね合わせているようでもあった。 「でも、少しだけ。少しだけ時間が要るの。今までの自分と向き合うには……」 「……ビビアンさん」 「真っ直ぐなのね。あなたは。レディの心に訴えかけるのには、もう少し時間をかけて口説くものよ」 「す、すみません!? そんなつもりで言ったんじゃなくて、その……」 アルトが途端に耳まで顔を真っ赤にして言いよどむ。口説くつもりで言ったのではなくて、悲しげな影を纏った彼女を放っておけなかったというだけなのだが……。 そんな慌てたアルトにビビアンが盛大に吹き出していた。それで余計にアルトが顔を赤くする。 「冗談よ。でも、ちょっとだけ素敵だと思ったんだから」 ビビアンが本気とも、冗談ともわからない口調でからかって、アルトの鼻を小突く。 「アルト君と、話せてよかった。それは本当よ」 最後に、ビビアンがとびきりの笑顔を見せた。その笑顔は夏に咲き誇るひまわりのような―――そんな笑顔だった。
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