訪れた夜闇は、街を瞬く間に包み込んでいった。
 だが、今日は人々は帰路につこうとせず、城の付近にある式典用の円形闘技場に押し寄せている。本日の祭りの祭典はここから始まり、みんな、それを楽しみにここに訪れたのだから。
 闘技場の中心には、祈祷をする際の祭壇を思わせる装飾をされた舞台が設けられていた。

 衛兵に先導されて、城門内広場へと通される。
 舞台を囲むように設置された観客席にアルトとシエルがいた。より一層、歓声や騒がしく感じられる。最前列ではないが、空を仰ぐようにすればなんとか舞台を見ることが出来る。少し首が痛くなるかもしれないが、背後席よりは辛うじて見やすいだろう。

「少し遅れちゃいましたね…」
 少しだけ身を乗り出して、シエルが舞台を見ようとするがすぐに疲れるのか休んで、また舞台を見ようとして身を乗り出してを繰り返していた。わ、と…小さい声を漏らした後に体勢を崩してぐらつく。
「ほら、大丈夫?」
「あ、ごめんなさい」
 アルトが肩を抑えて、それが恥ずかしかったのかシエルが頬を紅潮させる。

「まだ始まったわけじゃないんだから」
「アルト君の身長だと見れるかもしれませんけど、わたしの背丈だと見辛くて……だから、どの角度からなら見れるか確認を」
 短くアルトが苦笑をして、シエルの肩から手を離す。いつまでも掴んでいたら、さすがに失礼だ。

「みんなもどこかにいるのかな」
「たぶん会場のどこかにはいるとは思いますけど……リーシャさんが一緒でしたし」
 この舞台を見るために、商隊に同行したリーシャが一緒ならルシュカとメリッサもこの会場のどこかにはいるだろう。準備のために先に城に入ったエドたちや自由行動を満喫しているはずの商隊の面々もいるのだろうが…ごった返し、闘技場に人が溢れ返ったこの状況で探す気力はさすがになかったが。
「いるんだったら、帰りに会えるかも」
 アルトが言い、シエルが同意してそうですね、と頷いた。

 何気ない雑談をしているうちに、バルコニーに設けられた王族の席に女王が姿を現す。長く艶やかな黒髪と全てを睥睨させ、天の星をも霞ませる美貌はアルトの位置からでもはっきり見える。会場を見渡したをした後、ゆっくりとした動作で片手を挙げた。
 さっきまであんなにうるさかったはずの会場がぴたり、と水を打ったように静まり返った。ゆるりとパトラ女王が手を下ろして静かに、語り始める。

「本日はようこそおいでくださいました。中には遥々砂漠を越えて訪れた方もいらっしゃるのでしょう」
 あまり大きな声ではないのだが静かで耳元で語りかけるように、はっきりと女王の言葉が耳に届いてくる。
「当式典は四年に一度のみ行われ、それを楽しみにこれだけ多くの人々が訪れてくれたこと、誠に嬉しく思います。昨今では世が乱れ、魔物の脅威はこのイシスとて例外ではありません。ですが、人は心に潤いがなければ生きてはいけません」
 女王が言葉を切って、微弱に息を整えた。

「当式典を通して、少しでも明日の糧を養えればと思い、此度の式典を開催することを決めました。どうか、ごゆるりと楽しんでいっていただければ、幸いです」
 女王が少しだけ微笑みを見せて、観客がどっと沸く。女王が手を振って、ますます歓声は大きくなっていった。

 アルトも、拍手をしてその喝采の波に乗る。
 魔物の侵攻がすぐ喉元まで迫っていたり、人と人とが傷つけあう戦乱が起こっていたりするこの時代だからこそ、生きている楽しみ……娯楽で心を豊かにして、明日への糧と出来る。楽しみにする何かがあれば人は生きていけるのだろうから。

 演目が始まり、次々と踊り子たちが舞台に立って踊り始める。
 踊り子たちの中でも最高の……誰もが目指す名誉の舞台と称されるだけあって、それぞれの踊り子たちの舞台に呑まれる。
 題目の音楽が奏でられ、一人一人の舞台の上で自身を表現していく。踊り子たち一人一人の技量はもちろん、身体のしなやかさ、音楽に合わせて妖艶さ、美しさが舞台の上で表される。感受性だけでなく、一人一人の天賦の才もあるのだろうが、美しく表されるのはここまでの研鑽で自身を磨き続けてきたからだ。
 その全てが一つとなり、最高の舞台へと形を成す。
 今、舞台の上で奏でられている踊りは祈祷として神に奉げられるにふさわしいものとして昇華されていく。観客が皆、一人一人の舞台に息を呑んで、それを見つめて、踊り子たちに魅せられている。

 時間が瞬く間に過ぎ去っていく。
 いつしか、日は地平線の彼方へと落ちて黄昏を迎えて、夜闇が辺りを静かに包む。
 日差しが消え去り時間に、ビビアンの舞台を迎える。前に踊っていた踊り子と入れ替わって祭壇の中心に立つ。楽師たちが息を整えて、彼女を待つ。
 ビビアンが纏う衣服は胸元と、腰を覆うものだった。
 白を基調として、煌びやかな金と銀の細工であしらわれた衣装は純白の花嫁が纏う清楚さと、人を呪う悪しき魔女の法衣のような妖艶さを同時に兼ね備えた、伝統ある式典に相応しいものだった。

 ビビアンが一瞬だけ、ちら、と劇団を一瞥する。
 その視線に呼応して劇団が演奏を開始し、その音色に合わせてビビアンが舞い始める。
 指先が虚空をなぞり、腰が艶かしく動く。音色になぞって、描き始めた軌跡をアルトはただ見つめる。祭壇に捧ぐ踊りは艶かしく、どこかもの悲しく、そしてどこかで希望を感じさせる。
 森羅万象を描いて、その指先と音色を辿って、遥か追憶の扉をアルトは叩く。

 きっと、アルトとビビアンは同じ傷を持っているのだと……今、実感できた。
 二人は同じく、ただ背中を見送るだけでその手を掴むことは出来なかった。その最後の姿を記憶に焼け付けて、消えていった人の姿を今も影として残っている。アルトは兄アゼルスを、ビビアンは恋人であった戦士ガラルドのことを今も尚、自分たちの輪郭として刻み込まれている。
 アルトはその影を背負ってでも歩き出すことを選び、ビビアンは約束の場所に留まることを選んだ。
 それだけの違いだった。大切な人の死で己の生き方を決めた――その刻み込まれた影が、彼女の影に呼応し、どこかで惹かれた。魅せられ、求めてしまったのかもしれない。

 胸が締め付けられる。痛みではなく、彼女の想いに。
 過去のために、未来へと歩き出す。かつての夢……大切な人が夢見た舞台は今ここに。それを叶えて、未来へと歩き出すための今。
 それを全身全霊で描くビビアンの姿は輝いていた。その姿に息を呑んで、アルトが見つめる。
 一瞬だけ、刹那ほどの時間だったかもしれない。目が合って、ビビアンが微笑んだ気がした。その笑みはとてもいきいきとしていて、眩しくて――。

 過ぎ去ってみれば、一瞬のような時間だった。
 ビビアンの演目が終わって、彼女は喝采に包まれていた。惜しみない拍手が贈られる中、ビビアンが小さく手を振っていた。
 一礼をして、次の演者と入れ替わる。そのビビアンの姿を見つめて、舞台が切り替わって、次の踊り子が踊り始める……。

 気が付けば、全ての演舞が終わっていた。
 時間を忘れるほど、それぞれの踊り子たちの舞台に魅了されていた。見上げた夜空には月が輝き、それだけの時間が過ぎたのだということがわかる。

 女王が会場に降り立って、真摯な眼差しで踊り子たちの顔を見つめる。
「本当に踊り子たちも、会場の皆々様も長い時間お疲れ様でした。それぞれの今日までの研鑽が窺える素晴らしい舞台ばかりでした」
 傅く踊り子たちも、どこか誇らしく見えた。女王が小さな頷きを見せてから、言葉を続ける。

「心苦しくもあり、僭越ながら誰の舞台が最も素晴らしいものであったかを私どもで選ばさせていただきました」
 会場が息を呑んで、踊り子たちが傅いたまま、次の言葉を待つ。
 緊張が張り詰める。誰もが、女王の言葉を待ち、その形のいい唇から誰が選ばれたのかを待つ。
 女王が息を短く吸って、言葉を紡ごうとする。
 誰もが待ち続ける時間がゆっくりと流れ始めて、次の時が緩やかなまま迎えられようとしている。皆の視線が注がれる。

 焦がれた一瞬の出来事だった。
 誰もがその瞬間を見ていた。見ていたのにも、関わらずそれは起きてしまった。

「―――あ」
 小さな声を漏らして、女王が倒れ伏す。
 誰もがこの状況を把握できておらず、あんなに盛り上がり熱気があった空気が休息に凍り付いてゆく。女王の肢体から滴り落ちる真紅が会場の石畳を濡らす。
 この状況を招いた何かが……一人の踊り子の影から伸びていた。漆黒で塗り潰された影の塊は針となって、女王の肩を貫いていた。一瞬のうちに撓り、引き抜かれた影の傷跡から一気に出血が噴き出て、凍り付いていた空気が一気に氷解する。

「いっ、嫌ああああああああ!!!」
 踊り子の誰かが悲鳴を張り上げて、会場いっぱいに混乱が訪れる。ざわめき、歯車が狂ったのように祭りの喧騒とは違う、動揺と取り乱した声が噴出する。
 それを喜悦と笑いながら、影に住み着いた何かがぬるりと踊り子の影から這い出る。
 影だった。影そのものが人型に蝙蝠の翼を生やしたようなシルエットとなり、鋭い目と思わしきものが会場にいる全ての人間を睥睨する。

「貴女の美しさは国宝と呼ぶべきものだ。それがこんな公けの場で死ねば相応の混乱が起きる。美しすぎるというのも罪だな。女王陛下」
 不快な雑音が集積したかのような濁ったものが吐き出され、それが声だとわかる。
「あなたが言うように、皆が褒め称えますが一時の美しさが何になるのでしょうか。民を思いやる心がなければそれは空想に過ぎません。覚悟がなければ、なんの…」
 肩を抑え、呻き混じりに女王が影を睨み据える。抑えてても溢れ出した血は止めどなく流れ続ける。

「幾ら覚悟があろうとも貴女は偶像に過ぎないのだよ。さらばだ」
 影が嗤い、動けない女王に再び影が鋭利な鞭となって、切り裂かんと撓り、襲い掛かる。
「女王様…!」
「……ビビアン!?」
 ビビアンが女王の身体を軽く押して、前に塞がる。放たれた鞭はそのままビビアンに打たれて、彼女の身体が倒れ伏す。金のネックレスが弾け飛んで金属のカケラが四散する。

 再び、影の鞭を放とうとするが、観客席の一番下層から会場に飛び降りたアルトが一気に駆けて、影を切り裂き、賭け付けた衛兵が槍を穿ち、影を貫通した刃と刃が噛み合う。
 すると影が瞬く間に解れて、幾重もの線になったものが再び空中で編まれ、蝙蝠の形を成す。
「女王の暗殺には失敗したがまあいい。多くの人間の影に潜んで骨を負ったがこいつは頂いたぞ」
 爪に握られた鍵のようなものが見え、影は夜空に消える。一瞥もせずに女王とビビアンに、アルトが歩み寄る。すぐ様に部隊が動き、後を追ったが今は倒れ伏す二人を放っておくことなどできなかった。

「大丈夫ですか…!?」
「私は無事です。それよりビビアンのことを…」
「私も……大丈夫です」
 ビビアンも身体をゆっくりとした動作で起こして、アルトが安堵する。弾け飛んだネックレスを指先でビビアンが確認して、一瞬だけ瞳に憂いが過ぎる。

「あの人の……ネックレス」
 地面に散らばった一つの金属の欠片を握って、小さくビビアンが呟く。
「守って、くれたのね……ありがとう、ガラルド」
 掛け替えのない人から贈られたものの欠片から、その人の温もりを刻みつけるようにしてビビアンの視線が下に落ちていく。

 夢見た舞台は、こんな結末で崩れ落ちてしまった。
 追いかけていた夢は壊されて、その時間は二度とは戻らない。
 鍛錬を重ねて、劇団で踊り、それを支える人と見た夢、それを一度は忘れかけたこともあったが……やっとその時は来たというのにこんな結末を迎えた。砂に描いたものが風で巻き上げられるように、吹き飛んでいってしまった。

 沈むビビアンに、アルトが歩み寄って手を差し伸べる。鈍く、ビビアンがアルトを見上げて、藍色の瞳をぼんやりと見つめる。
「まだ、夢は続いています」
「……え?」
 ビビアンが言葉を返して、力なく手に捕まって立ち上がる。

「諦めない限り、夢は続くんです。どんなことが待ってようとも……うまくいかなくたって、また立ち上がって、走り出せばいいんです」
「……理想ね」
「理想です。それが現実のものにしたいことのはずだから」
 ビビアンの沈んだ瞳を見つめて、アルトが告げる。どこかでビビアンの瞳に光が宿った気がした。
 理想は果てなく遠く、追いつけばまた手から擦り抜けるものかもしれない。それでも、駆け抜けた日々、駆け抜ける日々にそれ自体に意味があると、そう思うから。

「アルト!」
 響いた声に振り返ると、シエル、ルシュカ、メリッサの三人が駆け寄る。
「あんた、無茶するわね…」
 メリッサが呆れ半分に言い、肩を竦める。咄嗟に衝動に駆られて、感情のまま身体を突き動かした。それでよかったとアルトは感じている。

「助かりました。アルティス様」
 声をかけられて、視線を向けると傷の応急処置を負えた女王がそこにいた。傅こうとアルトがするが静止される。しっとりと潤んだ瞳で見据えて、女王が静かに口を開く。
「不注意で王家の証たるものを奪われてしまいました。それこそがピラミッドを閉ざすものであり、開く鍵でもあります」
「そこまでして、守るべきもの……なのですね」
 女王がゆっくりと頷く。間に少しの逡巡を感じさせて、語り続けた。

「かつてイシスを守ってきた勇者がいたと伝わっています。その勇者が身につけていたのは魔界の鉱石で作られた武具で、古の魔王の呪いを封じ込めたものであったとか。勇者は結局、その呪いに負けて命を落としたと……それだけではなく、その呪いに呼び寄せられるかのように魔物たちが押し寄せ、このイシスに災いを齎すと伝えられているのです」
「それが、ピラミッドに封じられているんですね」
「あの魔の者はそれを解き放ち、我が物とするべくこのイシスへと忍び込んだのでしょう。部隊を差し向けましたが、それは全滅させられたと報告がありました。並の人間では魔族には及ばない……それが現実です。人が打ち勝てる希望があるとするのなら…」
 女王が甘く唇を噛んで、噛み締めているようでもあった。人の力では及ばぬもの、それを打ち払える可能性が、あるとするのなら……。

「もし、ピラミッドに眠るものが蘇ればどのような災いが齎されるか……アルティス様、勇者としてのあなたに一人の人間として頼みます。どうか、このイシスを守って……」
 女王が深々と頭を下げて、アルトが驚いて見つめる。一国の主がこうやって頭を下げるということはよほど緊迫した事態でなければならない。まさに今がそれだ。

「そのつもりです」
 迷うことなく、アルトが頷く。
 重なるかつての記憶。アリアハンで見た光景が呼び覚まされ、多くの命が失われた。アゼルスを失った日……その再現されつつある。
 こうしている間にも刻一刻と脅威は迫り、多くの人が危機に晒され命を奪われる……。それは、許せない。
 こうして明日を奪われるなど、人の死に方とは程遠い。
 アルトが笑顔を作って、それに女王が微かだが安堵したような表情を見せた。

 見れば駆け寄ったリーシャに解放されたビビアンの姿が目に入る。一瞬だけ、ビビアンと視線が交錯したが駆け出したアルトの足は立ち止まることはなかった。




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