昼の祭りの熱気は、騒乱に消えて静まり返っていた。
 人の賑わいではなく、街の至るところから異形の影の気配が溢れ返っている。祭りで行き交った街の人々や冒険者や観光客ではなく、街を守る騎士たちの剣戟が反響する。
 応戦の剣の音で街に魔物が侵攻してきているとわかる。黒い影が地平線を覆い、砂の街に迫り来る黒い波となったものが押し寄せてきている。吹き抜ける砂漠の風は凍てついた冷気と、呪文が放たれた熱が綯い交ぜになっていた。火柱が上がり、光が爆ぜて、炎が燃え上がる。街中で呪文が放たれている……その煙が風に混じっている。

 往来に溢れ返った全身を包帯で包んだ人型のミイラ男とマミーが、まるで人の軍が歩を進めるかの如くに侵攻してくる。イシス軍の騎士たちは進軍を阻止せんと剣を抜刀し、斬りかかる。
 次々と討伐するが、それ以上に溢れ来る影は際限なく迫る。勇猛に戦うイシスの騎士たちとて、人間だ。体力にも限界がある……。

 イシスを鮮血の赤に染まらせるわけにはいかない。
 魔の者となった亡者たちに果敢に挑むが、際限なく襲い来るゾンビたちに次々と騎士たちが倒れ伏していく。国のために、民のために戦い、それを矜持として死地へと赴く。
 呻き声をあげて騎士が地面へと吸い寄せられ、倒れ伏す。呻き声を上げて、血で霞んだ視界で見上げた月は煌々と赤く不気味に光り輝いていた。さっきまであんなに澄み切った色だったというのに。それが自身の血によるものなのか、それとも見上げなかっただけで最初からそうだったのか…。

 息を整え腹部に奔る痛みを堪えて、剣を支えにまた立ち上がる。
 蠢く亡霊どもは無人の野を蹂躙するが如くに、往来を進軍してくる。絶望的だ。傷を負った者数名では守りきることができない物量の敵。
 勝ち目のない戦いだ。如何なる屈強なる者でもこれだけの数を相手には出来ないだろう。馬鹿げている。それでも背を押す矜持は民を守るというとても単純なものだった。
 突然の襲撃に民の避難は完全なものではない。彼が守る地点から遥か後方には逃げ遅れた民たちがまだ大勢いる。それを残して逃げるなど、どうして出来ようか。

 騎士として、命は国と民に奉げた。
 それこそが矜持。己のあるべき姿。
 騎士が唇を噛み締めて裂帛の気合と共に、踏み出す。
 微かでも時間を稼げればいい。まだ避難が完了できていない人々が一人でも多く、王城へと逃げれるように。傷ついた部下たちが撤退できるように。自身の命を賭け、民のために戦う。この足を踏み出すのになんの躊躇いがあろうか。

 騎士が瞬きをする。
 瞬きの間に、青い風が吹き抜けた。
 吹き抜けた風は魔物たちを吹き飛ばす。切り裂かれたマミーたちは地面に崩れ落ちる。
 冷気に煽られて、青の外套が靡く。吹き荒れた風を孕んで激しく靡く外套は夜の闇においても尚、はっきりと視認出来、それがまるで夜の闇をも霞ませて輝く者とでも思えた。

 騎士の前に塞がった影は小柄な少年だった。
 筋肉はあるが華奢な小柄な影が、なぜ夜闇を照らす者に錯覚できたか……それは額に纏った銀の輝きが示していた。鈍く、だがはっきりとその存在を指し示す光―――。
 かつて……希望を背負った者がつけていたあの輪冠が示す意味は。

「撤退してください。ここは僕たちが引き受けます」
「ああ……わかった」
 騎士は呆然と頷く。いつの間にかに少年と同世代ぐらいであろうか、空色の髪の少女が隣に立ち、騎士の傷をホイミの光で治癒する。後ろにまだ二人ほど後に連れ添っているようだった。

 負傷した部下に肩を貸して、その場を撤退する。今は後続に合流して一人でも多くの市民を避難させる……それが今の自分の為すべきことだ。
「いいのですか!? 彼らはまだ子供ではないですか!?」
「そうだ子供だ。だが彼らは最高の援軍だ」
 部下たちが顔を見合わせるが、振り向くことなく騎士は王城に向かい歩き続ける。

 まだまだ子供といっていい者に後を任せ、後退するなど騎士としてあるまじきことだろう。
 だが覚えている。
 あの輪冠をつけた者の雄姿を。
 まだまだ彼が新米だった頃、かつての遠征で垣間見た一人の男がそれをつけていたことをよく覚えている。この戦場でまたそれを被った者に助けられることになるとは。
 数奇な運命を感じ、少年に助けられたことに感謝の念を禁じえなかった。

「感謝するぞ……勇者よ」
 騎士が一人ごちるように言い、一瞬立ち止まって振り向いて、後ろで戦い始めた彼らの姿を見た。突風に煽られた砂煙が全てを包み込むのと同時にまた部下を率いて歩き出した。



 駆け抜けて、敵陣に突っ込む。
 アルトの剣が夜闇を裂いて煌く。振るわれる銀の軌跡が人型の異形を切り裂く。右薙ぎに複数の魔物を屠り、そのまま突貫し、突きを穿つ。剣を抜き放ち、地面に倒れる前に魔物は闇に溶ける。
 風の如く、駆け抜けるアルトは更に複数の敵を薙ぎ払う。時折吹き抜ける突風に外套が虚空に舞い、それが蒼の軌跡を描いて、アルトは青い光となったようにすら感じさせる。風と共に踊る砂煙の中でさえ、一際強く輝く蒼の光……。

 打ち倒し、切り払い、薙ぎ払う。
 閃いた剣は夜闇を切り裂いて、軌道を描く。迫り来る魔の者を屠り、アルトの藍の瞳が地平線を見つめると同時に緩やかな風に煽られて、外套が靡く。
 彼方まで黒で塗り潰されたような光景を、アルトが見据える。

 恐らくは、この魔物たちが溢れ返ったのはピラミッドの封印が解かれたためか、イシスを食い潰すまで終わらない……それが古の魔王の呪いの力。
 その根本を断たない限り、この黒い海は止め処なくイシスへと向かってくる。事態を解決するためには、やはりピラミッドまで向かわねばなるまい。そこにこの状況の元凶たる魔族がいる。それを打ち倒さねば―――。

 メリッサが詠唱し、掌から微かな光が生じ解き放つと同時に閃き、ベギラマの炎が地を這う。閃熱に焼かれ、焼けていく魔物たち。
 続け様に地面から敵陣の中に一際大きな氷河がせり上がり、ヒャダルコの刃が魔物たちを吹き飛ばす。
「どこから湧いて出てくんのよ……キリがない」
 メリッサが下唇を噛んで、言う。どれだけ切り裂いても、呪文で薙ぎ払ってもまるでその数を補充するかのようにまた湧き出てくる。消耗戦を強いられているような焦燥感に苛まれるのも無理はない。

「でも、やるしかないんだ」
 アルトが静かに言う。
 守る……それだけのことだ。どんな小さなものでも、それが理不尽なものに踏み躙られてしまうのであれば、どんなものが相手でも、悲しみを広げる者とは戦う。
 柄を握り締めて、短く息をつく。
 アルトが静かに迫り来る者たちを見据えて、また駆け出す。

 アルトの切っ先がミイラたちを薙ぎ払い、次々と屠っていく。
 ぎり、と唇を噛んで命を絶つ感触が手に伝わる。踏み込んで裂帛の気合を持って黒い波のように押し寄せる魔物たちを打ち払っていく。
 吹き抜ける夜風に舞う砂礫が、少年の軌跡をより鮮明に示す。風と共に鼻腔を突く呪文による火の匂いがここが戦場であることを知らせ、派手な呪文による爆撃が鼓膜に反響して目に捉えたときには赤々と紅が踊る。
 それでも留まることを知らぬ黒の波は次々と押し寄せて、イシスへと迫り来る。
 アルトはそれでも踏み込む。崩れれば失われるのは、無辜の民……踏み躙られる幸せや笑顔が自分の背後にある。理不尽に対する心に燻るものが足に力を込める。

 どれだけ倒したかはわからない。
 でも、まだまだ敵が押し寄せる限りは、ここで崩れ落ちるわけには―――。

 シエルの回復呪文による治癒があるとはいえ、疲労が消えるわけではない。蓄積されたものが身体を徐々に蝕んでいく。
 口元から疲労の色が滲んでくる。息が漏れて、少しずつ身体の精細を奪っていく。
 敵はお構いなしに侵攻してくる。アルトがまた剣を振るうが、一瞬の隙を許し、一撃を胸に貰う。掠っただけだ。反撃で倒すも、背後から襲い掛かったマミーが渾身の一撃を突き出してその直撃を受けるその刹那に。

「戦場の中で気を緩めるとは、余裕だな」
 背後から響いた鋭い声に弾かれて、振り向くとマミーが倒れ伏した。敵が闇に溶けるのと同時に現れた銀髪の青年……バーディネが素っ気なく言う。
「勇者が簡単に敵に背後を許してるんじゃねえ」
 呆れるような声で、バーディネが地平線を見据える。長年封じられてきた怨嗟が湧き上がるような光景だった……亡霊たちの慟哭がイシスを包み込んでいってしまいそうな、そんな錯覚を感じるぐらいだった。

「関係ないよ」
 アルトが少しだけ唇を緩めて、バーディネを見やる。
「イシスを侵略させない。それだけだよ」
 笑みを消して、アルトがゆっくりと目を細め、彼方を見据える。その横顔をバーディネがちら、と見やって片手で顔をかきむしる。

「住民の避難は完了したらしい。だったら、お前がここを守ってる必要はなくなった」
「だったら、打って出る……敵の元凶を倒す」
 堅く剣を握る指に力を込めて、アルトが静かに言う。元凶を断たない限り、この状況が続くというのであれば、そうするだけだ。
「なら、まず回復してからです」
 隣に立ったシエルがにこりと微笑みかけてから、掌から溢れ出した治癒の光がアルトを包み込んだ。それまで負った傷が消えて、確かめてアルトが指先を握ってみせる。

「ありがとう。でも」
「でも、わたしはついていきます。アルト君は無茶ばかりしますから放っておけないので」
 少しだけ、目を細めて微笑むシエルの眼差しは真剣だった。旅立つ時と同じく―――自分で決めたことは譲らない真摯な目でアルトを見つめていた。これはたぶん、どう言っても聞かないだろう。
「わかった。頼りにしてるよ」
「頼りにしちゃってください」
 頷いて、シエルが杖を抱くようにしてみせた。

 アルトが彼方を見据えて、息を吐く。白い息が夜闇に溶けていく。
 闇の向こう、そこにいるこの事態の元凶そのものを叩く。
 だが、そのためには夥しく蠢く魔物たちの中を突破しなければならない。孤立無援……誰も手を差し伸べることが出来ない亡者の地獄の中。それを抜けていかねば、この状況は変わらない。

 それでも、と。
 少年が足を踏み出す。
 希望がないのであれば、ただ示せばいい。それだけのことだった。闇の中で誰もが可能性がないと、救われる希望がないと、言うのであれば―――。
 目を見開いて、アルトは闇へと踏み出してゆく。
 迷いなどなく、恐れもない。アルトは剣を握り締めて、踏み出していく。在るのは己の覚悟と……どうしたかだけだった。

 誰もが、笑顔でいて欲しいと。
 ただそれだけのささやかなもの。それだけを足に込めて、闇夜へと駆けていく。

 夜の闇に、炎が瞬いた。
 閃光が迸り、空気と入り混じって燃え上がった。無数の魔物たちは超高温の熱風に飲み込まれていく。焔の道は砂塵を巻き上げて、焼き尽くす。
 黒い渦の中に焼き焦げた道が作られ、海が裂かれたように……歩く道筋を示して、ピラミッドへと続いていた。

 炎が放たれた方向を振り向くと、そこにいたのは一人の青年であった。
 青銀の…絹糸のような長い髪が夜の風に靡いていた。銀色の眼差しは冷徹に少年たちを見下ろして、鋭さすら感じさせる。顔立ちはこの世のものとは思えないほどに美しい。完璧すぎるのだ。まるで生まれた時から死ぬ時まで変わらずにあるように―――完成されすぎていた。
 青い法衣を纏い、額にする金の円冠が彼の身分を示す。
 賢者。天に選ばれたのみがなれると謳われる……森羅万象を知り得た者。神秘とされる魔法使いが使役する呪文、奇跡とされる僧侶が示す呪文。その二つを手繰りし者。

「行け」
 低い声で、少年に青年が語りかける。それにアルトがびくりと背筋を硬直させる。
「ここは俺が引き受けてやると言ったんだ。さっさとしろ」
「は、はい」
 思わずアルトが頷いて、その背後から投槍のように杖が放たれて、青年がそれを難なく掴み取る。

「な・ん・で。あんたがここにいるのよ?」
 メリッサが顔を引く付かせて青年を見やる。
「どこぞで見た貧相な胸がいると思ったが、やはりお前か馬鹿弟子」
「誰がっ!? 誰がよ!?」
 青年が冷笑し、杖を放り投げる。それにむす、とした面持ちでメリッサが杖を掴み取る。はあ、と短く嘆息してじと目で青年を見やった。

「知り合いか…?」
「知り合いたくはなかったけど、知り合いよ」
 尋ねたルシュカに対して、メリッサが肩を竦めてみせる。

「癪には障るが、ここは任せてもいいということか」
 バーディネが軽く青年を睨むようにして見ていたが、それでも切り開いてくれた道を無碍にするわけにも行かない。アルトが振り向かずに駆け出す。
「任せていいと見ました。頼みます」
 アルトが言うと、返答代わりか敵の中に暴風が巻き上がる。嵐となった風が砂礫と粉塵を巻き上げて全てを天へと返す。

 アルトは開かれた道を駆けて、ピラミッドへと向かう―――。




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