「ようこそ、いらっしゃいました」
 歓迎の意を示して、女王が手招きする。
 アルトが招かれたのは、女王の私室だった。本来ならば、男子禁制の場であるのだが女王の命によりアルトはここにいる。鼻腔をふんわりと薔薇の香水の匂いが香る。膝を突いて、敬意を示す。
「かしこまらずに。もっと砕けていてもいいのですよ」
 女王が朗らかに笑うが、男子禁制の場にいる場違いな感覚も手伝ってか、アルトはとてもじゃないがそんな気分にはなれない。

「ただ、私はあなたに一言お礼を言いたくて招いたのです。国難から我が国を救っていただいて本当にありがとうございました」
「いえ……」
 席を立って頭を下げた女王に、アルトが困惑し、戸惑う。一国の王が一介の旅人に頭を下げるなどあってはならないことのはずだ。ただただ目を丸くするアルトに、女王が吹き出すように笑った。

「そういうところは、年頃の少年となんら変わりがないのですね。襲撃が会ったときはあんなに凛々しかったというのに、まるで別人のようです」
「そんなに、怖い顔をしてましたか?」
「それは、もう」
 女王が目を細めて微笑む。太陽よりも、燦然と輝く優しげな美貌に微笑まれたからにはアルトとて目を奪われてしまう。見蕩れ、自然と顔が熱くなって赤くなっているのが、わかる。

「貴方が戦わなければ、きっともっと多くの命を奪われてしまっていたことでしょう。単騎の魔族一人に国がここまで翻弄される……魔族とは、どれほどの脅威であることか」
 憂うように、女王が伏し目がちになって窓に広がる青空を見やる。その向こうの山岳の彼方、ネクロゴンドに思いを馳せるように。
「けれども、それと戦うのはただ一人であってはならないというのは、この場だけの私の戯言です」
 魔と戦うのは勇者の定め。それはつまり、誰かに全てを押し付けるということに相違ない。

「勇者として敬意を払いたい一方で、年頃の少年の心を無くしてしまわないようにと願わずにはいられないのです。それは若い心が壊死するということだから」
 憂いの眼差しが、アルトを見つめていた。
 希望を背負うということは、誰かの独善を押し付けられることにもなる……勝手な願望、幻想、妄想。その全てを背負おうとすれば、それはどこかで何かが壊れていくのと同義だ。それが心に染み入るような気がして、アルトは黙って女王の言葉に耳を傾ける。
「少し喋りすぎましたね。これ以上の言葉は貴方を惑わすことになる」
 女王が、力なく笑みを見せる。視線は下へと落ちていった。

「僕は、ただ自分の感情に従って行動しているだけなのです」
 自ずと、アルトの口は動いていた。今度は女王がそれに耳を傾ける。
「ただ知ってる人だったり、知らない人だったりが笑顔でいられる場所を守りたいんです。僕が戦う理由はそれだけなんです」
 言い切って、アルトが女王を見つめる。それに女王が少しだけだが、微笑みを見せて静かに彼女の視線は地面へと吸い込まれ、消えていった。



 何故、女王がそれを口にしたのか、その真意を知るのは女王しかいない。
 優しげな、どこか憂いを感じさせる微笑みを見せて女王は答えはしなかった。そのまま、謁見が終了して私室を後にする。

 女王が告げた言葉が、未だに心に響いている。
 アルトが、自分である意味。
 この旅は自分の意思で始めたことだ。誰の意思が介入したわけでもない―――ただ、自分の力でも誰かの笑顔を守れるのであるのならと、旅立ってもう既に半年以上が経過した。時が流れても、それは変わってはいない。
 アルトが立ち止まり、回廊の向こうに広がる青空を仰ぐ。蒼が視界に飛び込んできて、染みる。遮るもののない広大なるものは雄大で、果てしなきものだった。まるで、空の下で、自分が希薄になっていくような…。

「そんなところで何を呆けている」
 鋭い声が耳に届いて、反響したほうをアルトが振り返る。そこにいたのは長い青髪の、長身痩躯の空色の法衣を纏った青年。額の輝く円冠が彼の身分を鮮明に示す。
「あの時の…」
 アルトが思い出して、青年の顔立ちを見つめる。襲撃があった夜に助け、道を開いた人だった。そしてメリッサの師でもある。

「お前が、今回の勇者とやらか」
「そういう貴方は……賢者、ですね」
 青年が目を細めて、手に持った煙管を加える。焼けた香草の苦いものがアルトの鼻腔を、ふんわりと刺激してあまり心地の良いものとはとても思えなかった。

「あの、何か……」
「特に用があったわけじゃねえ」
 それに肩透かしを食らったように感じて、がくっとアルトが肩を落とす。青年は気にも留めずに座り込んだまま、喫煙を続ける。
「ま、縁があればまた出会うであろうよ。そんなもんさ」
「はあ……」
「さっさと行ってやんな。ここでぼさっとしてるほど、人生は長くないぞ」
 青年が、盆に灰を落としてから煙管で回廊の下を指す。指された先には、見覚えのある青い髪の少女が街外れの墓地にいた。顔を窺ってアルトが見やると不思議な雰囲気を纏う青年は、また一服していた。

「助けてくれてありがとう、ございます。ええと」
「ヴォルディークだ。せいぜい青春しとけよ坊主」
 アルトが失笑と共に歩き出して、砂漠の灼熱の風が頬を撫でた。その風に導かれるようにしてアルトは下へと降りていく。

 寂寞とした乾いた風に誘われて、大理石を踏んだ先に彼女がいた。
 不規則な十字架の列が並ぶ。簡素な……石で出来た死者たちが黙する場所。そこにいたのは空をそのまま落としたかのような長い髪をした少女が祈りを捧げていた。
 言葉さえも、失ったかのような。
 声をかけるのも憚れるほど、祈りを捧げる少女の姿は神秘的で、俗世とはかけ離れたようにも思えた。触れればその場から掻き消されてしまいそうな、そんな儚さを纏ってその場に佇んでいた。幼さを残す大きな眼をゆっくりと開いて、墓地を後にしようとして、アルトと目があった。
 驚くような、そんな表情を見せた後で彼女がゆっくりと微笑む。

「どうしたんです、アルト君?」
「どう、って。謁見が終わって、城からシエルがここにいるのが見えたから……シエルこそどうしたの」
「祈っていたんです」
 愁いを帯びて、シエルが墓石を見つめる。釣られるようにしてアルトも隣に立って無数の墓を見つめる。

「この前の、騒乱で亡くなられた方たち、だそうです…」
 シエルが目を細める。この前の魔族の襲撃は、元凶を打ち倒したことで被害は少なく治まった。だが、それでも傷つき、命を落とした人がいないということではない。
 あれだけの混乱だったのだ。魔族に操られた怨念の影たちがイシスへと押し寄せた。避難が間に合わなかった人はいる。逃げ遅れ、そのまま犠牲となった人々の墓標。それが今、二人がいるところ。灼熱の日が灰色の十字に深い影を残して、幾重にも十字の影を作り出している。

「あの、わたしたちが一緒に行動させて貰っている『幸福の果実』の人たちも、何人かあの混乱で…」
 知っている。略式ではあったが、弔いにはアルトたちもまた参加した。ここではないが、別の墓地で葬られ、砂漠の国の砂で彼らは眠りに付いた。
 亡くなったのは、前にシエルに声をかけ、フォッカーに悪態をついてた傭兵たちだ。混乱の最中、人を逃がすために時間を稼ごうとして、負傷し、そのまま命を落としたと聞いている。
「自分の出来る範囲でしか誰かを守れないってわかっていても、こういうのは…」
 アルトが独りごちるように呟いて、堅く拳を握る。名前は知らなくても、一緒に行動した時間は短くとも近くにいた誰かが理不尽にいなくなる。誰かの時間が唐突に止まり、奪われる。そんなのは、許せない。失われた命は、二度と戻らないからこそ、尚。

 十字の影が濃くなり、少年に重なる。
 無数の十字架が乱雑に影の中で入り混じる。弔われた命はここの墓地だけでない。アルトたちの力で守られた命がある一方で、失われるのを防げなかった命もまた、あるのだから。やるせなさと悲しみが綯い交ぜになったものを感じながら、そっと墓地全体を見渡す。
「やっぱり、悔しいよね…」
 はっきりと告げてから、少年の藍色の眼差しは黙する死人の群れをアルトが見つめる。

「責めないでください」
 シエルが短く言って、アルトを真っ直ぐに真摯な光を称えた眼差しのまま向き直る。その紅の宝玉のような、水晶の瞳の中に映る自分自身を見つめる。
「自分自身を……責めないで。アルト君は出来る限りのことをやりました。守られた命だってたくさんあるはずです。零れ落ちたものを拾おうとしたり、落としたことを悔やんだりしたら、きっと…」
 そこから先は言葉にならなかった。シエルの唇が何かを言葉にしようとして逡巡するも、結局形として発せられることはなかった。

「うん、大丈夫だよ」
 シエルに、アルトが笑顔を作ってみせた。そんな、憂いの表情を見せる少女の顔を見たくないと、感じたから。
「悔しいけど……守れたものを否定したら、いけないってそう、思えるから」
 笑顔で答えるアルトに、シエルもまたぎこちなくだが、微笑みを返してくれたのだった。


 燦々と降り注ぐ黄金の日差しも、陰りが見え始めた。影の多くなった大通りをシエルと二人で歩く。
 襲撃の爪痕は色濃く、破壊された壁や建物が視界に入り、街の人々はもう既に修復に取り掛かり始めていた。瓦礫の撤去や壁の修復、粉砕された通りの補修などに勤しむ人々が忙しなく、作業に徹しているようだった。
 あれだけのことがあった翌日には、その爪痕は消え始めている。それぞれで悲しみ、苦しみはあるだろうが、イシスの人々は立ち直り始めている。それに感嘆やら、驚きやらを感じてアルトも立ち止まってついつい見てしまう。
 忙しなく、行き交う街の人たち、行商たちの活気がイシスの市場に戻るのもそう、時間の掛からないことだと実感できる。

「あ、いたいた」
 声をかけられて、アルトが声の主の方へと振り向く。宿の前に佇んで、小走りで寄ってきたのはビビアンだった。汗を拭って、弱くビビアンが微笑んだ。
「ずっと、待ってたのよ」
「朝からずっと?」
 頷いて、ビビアンが同意する。この快晴で透き通った青空の下、待っていてくれたビビアンにアルトが目を丸くする。

「もちろん宿の部屋で待ってたわ。二人の姿が見えたから降りてきたのよ」
 からかうようにからからと笑った後、ビビアンが目を細めて、遠くを見つめるような眼差しをアルトに向ける。その眼差しを受け止めて、アルトが唇を引き結ぶ。
「ただ一言だけ、ね。お礼を言いたくて」
 お礼?、とアルトが聞き返してビビアンが頷く。

「あの、わたしは部屋に戻ってますね」
「え、あ、うん」
 シエルがアルトの顔色を窺うことなく告げて、そそくさと宿の奥へと姿を消す。それにアルトが呆然と見送った後、またビビアンに向き直る。

「ずっと、あの人と夢見た舞台がめちゃくちゃになってどうしたらいいのかわからない私の心を、君の言葉が引きとめてくれた気がするから」
 ビビアンが弱く、ほんのすこしだけ笑顔を見せた。
「諦めない限り、夢は続いていく……そうでしょう?」
「はい、どこまでも、終わりなく」
 アルトが言い切って、ビビアンが目を細めて微笑んだ。新しい夢を、これまでの夢を引き継いでまた歩き出していけるような、陰やわだかまりのない優しい笑顔を、アルトに向けた。

「そういえば」
 うん、とビビアンが青空に向かって背伸びをして、アルトに向き直る。神秘的な色を宿した眼差しが、少年の姿を射抜く。そのアメジストの眼差しの中に佇んだまま、少年もそのまま藍の瞳にビビアンを映した。
「まだ、アルト君の夢を聞いてなかったかな。昔、君がどういう道を目指したのか、は聞いたけどね」
「僕は……」
 改めて、口にすることになんら逡巡もなく、ビビアンを見据えてアルトが口を開く。

「僕は、みんなの笑顔を守っていけたらいいな、って。それが今の僕の夢なんだと、思います」
「だったら、その夢はもう叶ってるじゃない」
 え、と虚を付かれて、アルトが聞き返してビビアンが笑みを深める。それに透き通ったアメジストの目を細めて、形のいい唇が笑顔を作る。
「あなたは―――私を、この国に生きている人々を守れたじゃない」
 ビビアンに告げられて、じんわりとアルトは心に湧き出したものを感じた。
 あの日、兄を失った日に守れなかったものを少しでも守れたのかと、実感が湧き出して、心を満たしていく。見上げた空の蒼はじんわりと目に染みて、少しだけ痛みを感じた。だが、それは嫌な痛みではなかった。その痛みを感じたまま、アルトはたた青空の下で立ち尽くしていた。

 頬を撫でた風が吹き抜けて、砂漠に新しい風紋を作り、刻み付ける。




 闇が蠢いた。
 蠢動する闇が瞬いて、蠢く人の影が王座に在る。闇を支配し、律するかのように座する姿は禍々しくも、どこか高貴なるものを感じさせる。
「我が一手、失敗した模様です」
 傍らに傅く翠の法衣を纏った銀の仮面の魔術師……エビルマージの言葉が響いて、指先に止まった鳥の形をした闇が、言葉が終わるのと同時に崩れ落ち、闇に呑まれて消えた。

「よい、ご苦労であった。それに貴様の一手、益がなかったわけではなかろう」
「―――は」
 闇の陰が、笑みを作り、超然とエビルマージを見下ろす。指先が闇をなぞるようにして、消えていった影を手繰る。その指先を堅く、それが握り締める。

「貴様を阻んだのが彼のオルテガの子か。どこまで行っても因果なものよな」
 エビルマージが傅いたまま、固く握りこぶしを作ってみせた。あの時、アリアハンで苦汁を舐めさせられ、今もまた一手を阻まれた。ただの少年が魔将であるエビルマージに一矢報いたのだ。その屈辱は未だにエビルマージの心を濁らせる。
 それに、この一手で得たものは大きい。
 怨霊を手繰る術、『力』が眠るべき場所、そしてワイトキングと一戦を交えた際に垣間見えた青い髪の少女……あの時より大人びた姿は、エビルマージの記憶にあるものとより強く重なる。

「楽しみだ。彼らの行く先……それもまた渦となる。そうであろう?」
 主が問い掛け、エビルマージの後方の深遠から一つの影が姿を現す。
 それは騎士の姿をしていた。夜闇がそのまま地に落ちてきたかのような、漆黒の甲冑で身を包んだ黒の騎士が姿を表す。それにエビルマージが睨み据える様に見て、彼の名を告げる。
「剣将、ソードイド」
 黒騎士は何も答えずに、膝を突く。甲冑の闇から覗く相貌は主を見据えたまま、微動だにしなかった。

 黒騎士が傅いたのを見て、主がくつくつと哂った。黒騎士は表情を見せることなく、黙したままであった。
「彼のオルテガの子にも、我が道筋を阻むことは出来まい。必ず手に入れてみせよう。時空を越える『力』をな」
 主が、指先で辿って、照らし出した淡い銀、紫の光。宝玉の輝きは闇を照らすかのように煌き、光を放っていた。まだ世界中に散らばった力の欠片。それを主は願っている。
 残りの宝珠を全て、手中に収めた時、それこそが始まりになるのだと……エビルマージは理解している。

 その前に確かめねば、ならないことが出来た。

 あの少女が、何者であるのかを―――。




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