隣で歩いていたはずなのに。

 小さい頃から、隣を歩いていたはずなのに、いつしか、あいつは隣ではなく、少し前を歩いていた。それに追いつこうとするが、更に前へ前へと歩いていってしまう。

 始まりは同じだったはずなのに。気が付けば、こんなにも差が出来ていた。

 いつから?

 いつから、あいつを追いかけるようになっていたのか……。






 イシスを経ち、一月半ぶりのアッサラームの喧騒が商隊を出迎える。
 自由都市の雑踏は経ったときと相変わらずであった。市の活気と楽器の音色が賑やかに戻った商隊の面々を、歓迎しているようだ。
 劇団の前へと訪れ、薄暗くもどこか幻想さを感じさせる若い踊り子たちの舞台は相変わらず賑わっていた。劇団の前の広場で、団長自ら商隊を歓迎する。

「長旅、本当にお疲れ様。話は聞いているよ。祭りの日に魔族の襲撃があったとか……本当に君が無事で良かった」
「いいえ、ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした」
「舞台のことは、その残念だったね。せっかくの機会だったというのに…」
 団長が表情を曇らせ、憂いを見せる。
 踊り子たちにとって栄誉ある舞台をこんな形で、有耶無耶となってしまったのだ。それが心に陰を作っていないかを気遣っているのだろう。ビビアンが頭を振って微笑んでみせた。

「今回の舞台で様々なことを経験できました。本当に……今回の鎮魂祭に参加できてよかったと、本当にそう思います」
 ビビアンの微笑みに、陰は感じることはなかった。ほんの少しだけ過去を振り切った彼女の微笑みは、以前より増して光り輝いて、どこか強さすら垣間見える。
 今の彼女なら過去に囚われることなく、前を向いていけると信じれた。

 砂漠の苛烈な日差しより、暑さが抜けた渇いた日差しが降り注ぐ。夜ほどではないが、賑わう街の雑踏の中、ビビアンがアルトたちに向き直る。
「本当に……アルト君たちと行動できて良かった」
「僕こそ、ビビアンさんと旅が出来て楽しかった」
 ビビアンの微笑みに、アルトもまた笑顔を返す。
 ここで彼女との旅は終わりかと思うと少しだけ心に寂しさが過ぎるが、新たにアッサラームでやり直そうとしているビビアンを留めるわけにも行かない。だったら、笑顔でそれを送り出さなければ。後を濁さず、それぞれの道を歩んでいくために。

「もう、次に何をしたいかは決めてるの。次の鎮魂祭の頃には、きっと私も引退せざる得ないでしょうね」
 躊躇いもなく、ビビアンが告げる。年齢的に言えば、この鎮魂祭が最後の機会であった。それがこんな形で終わってしまったのにも関わらず、そのことに対して何の未練もないようだった。
「次の私の夢はね、次の踊り手たちに私の持っている技量を託して未来へと礎になれればって思うの。まあ、まだまだ当分先になるでしょうけどね」
 少しだけ、照れ混じりに告げるビビアンはとても、眩しかった。
 彼女のこれからは影のない、過去を背負ってでも悪くないとそう思える生き方をしていけるのだろう。そう、感じさせるほど、ビビアンの表情は晴れ晴れとして、一人の女性として輝いて見えた。

「これから、アルト君たちはどうするの?」
「東へ…ダーマに向かおうと思っています」
 アルトが次の目的地を告げる。
 学術都市ダーマ。古代から続く歴史あるイシスには宝珠はもちろん、その手掛かりはなかった。ならば、世界各地の知が集い、魔法使いたちが鍛錬し、腕を磨くダーマにならば手掛かりとなり得るものがあるのではないか。そう思ったからこそ次の目的地をダーマへと定めた。

「アッサラームからも定期船は出てたはずだけど…」
「無理だな。ダーマへの定期船は時期が過ぎてしまっている。次の出航は当分先になる」
 ビビアンが首を傾げて、バーディネが口を挟む。ダーマへの定期船が出てる時期は夏前に出てしまっているとのことだった。
 途中のバハラタまでならあるがそれでも険しい山脈を越えなければならず、船旅で向かうのが現実的だろう。

「ルーラはどうなんだよ? 行ったことあるんだろ?」
「無理無理。行ったことあるのがあたしだけだし」
 ルシュカが問い掛けて、メリッサが頭を振って、否定する。転移呪文ルーラは術者だけでなく、ぞれぞれで行ったことのある場所へしか行くことはできない。失敗すれば転移する時に空間の捩れに飲み込まれかけない危険性がある。

「ふむ……だったらこうしないか」
 エドゥアルドから提案を持ちかけられ、アルトたちが視線を彼へと向ける。
「これから我々はポルトガに商談があって、向かわなければならない。ポルトガで取り引きをする人は顔の聞く人だ。その縁から船を出して貰えないか聞くというのはどうだろう」
 確かにエドの言い分は尤もだ。これから先、船での旅もあるだろう。定期船を乗り継ぐのは効率が悪いのもまた、確かだった。
「わかりました。ポルトガまで同行します」
 アルトが頷くと、エドが薄く笑みを見せた。

「あいつに……あまり貸しを作り過ぎるなよ」
 釘を刺すような、バーディネの言葉に覗き込んだ彼の紫の瞳はとても、冷ややかであった。
 どこか、エドを疑るような表情を見せたのは一瞬で、振り返りそのままバーディネは馬車の荷に背中を預けた。それにアルトは目を瞬かせ、真意を尋ねる間も無く会話に戻った。

「ダーマということは、これから東へと向かうのね。……東は、多くの冒険者を魅了するものがとても多いそうよ。私たちの団長も、若い頃は東に劇団を作ろうとしてたみたいだけどね」
「やだなあ、ビビアンちゃん。昔の話を蒸し返さないでよ」
 ビビアンに釣られて、団長がからからと弱く笑った。

 遥か東の地平は、厳しい地形と山々に囲まれ、神秘さすら纏う人々や文化は西の人々を、冒険者たちを昔から魅了し続けた。たまに東から流れてきた商品が、このアッサラームでも高値で取り引きをされることは間々あることだとか。
「アッサラームより、東の文化かあ…」
 ぼんやりとルシュカが言う。多くの商人たちを虜にしてきた絹や織物などの文化は一人の商人として、とても興味深いもので、それに関心を抱くのは無理からぬことだろう。

「ねえ…」
 それまで黙って耳を傾けていたリーシャが口を開く。
「私も着いていったらダメかな?」
「お前、また」
「またよ。今回、『幸福の果実』のみんなと一緒に旅して、イシスの文化を見てみてほんの少しだけ離れてるだけなのに、こんなに音や舞いが違うなんて思わなかった」
 ルシュカの言葉を遮って、リーシャが続ける。
 世界は広い。どこまでも果てなく。一つの国境を越える度に、違う文化が息づいて、違う音色がそこにはある。思いを馳せるとキリがないくらいに、その目で、その肌で、違う文化を感じられる。

 真摯な眼差しで、皆を見つめるリーシャの瞳は真剣だった。曇りなく、真っ直ぐに見つめる眼差しには一切の慢心はなかった。
 そのリーシャの横顔をじっと見つめて、瞳から感じられた熱意に根負けしたようにルシュカが嘆息してエドゥアルドに向き直る。

「俺からもお願いします。こいつを旅に入れてやってくれませんか」
 ぎり、とルシュカが堅く拳を握る。決定権を持つエドと対峙して、強張った眼差しのまま、ルシュカが向き直る。
「今回の旅だって泣き言言わずに着いてきましたし、邪魔にはならない……と、思います」
 ふむ、と思案げにエドが自身の唇を指でなぞって、考える素振りを見せる。それをルシュカが息を呑んで見つめて、リーシャも身を強張らせて見守る。

「わかった。だが、他の傭兵と同じく足を引っ張るようなら…わかってるな?」
「もっ、もちろんよ」
 エドに釘を刺されて、リーシャが肩を竦ませる。エドが頷くのを見て、リーシャが肩の力を落とす。ふつふつと感慨が押し寄せてきたのか、ばっ、とルシュカの手を取って大振りにぶんぶんと振り回す。
「うわあっ!? な、何すんだよ!?」
「何って、嬉しかったからに決まってるじゃない!」
 むす、としてリーシャがルシュカの翠の瞳を見つめて告げる。一瞬だけ、ルシュカが頬を赤らめて照れていた。体勢を崩して、ルシュカが地面に尻餅つく。

「このままじゃ、あんたに借りを作りっぱなしじゃないの…」
 聞こえないぐらい小さな声で、リーシャが一瞬だけ囁いた気がした。ぱちぱちと猫を思わせる大きな瞳を瞬かせてみせて、ルシュカから身体を離して立ち上がる。
「なんか言ったか?」
「な、なんでもないわよ」
 そう言った後、ぷい、とリーシャがぷいとそっぽを向いて、ルシュカが訳がわからないといった面持ちでリーシャの顔をぽかん、と見ていた。

 そんな二人の様子を見て、周りからどっと笑いが出る。
 それに恥ずかしくなったのかリーシャが慌てて身体を離して、距離を取る。ルシュカは頭をかいて、失笑しているだけだった。

「さて、我々はそろそろ」
 エドが座長に恭しく一礼して、各々で準備し始める。そろそろこの劇団とも別れの時は近づいている……。

「アルト君」
 ビビアンに呼び止められて、アルトがビビアンのアメジストの眼差しを受け止める。
「これからの旅の無事を祈っているわ……元気でね」
「はい……ビビアンさんもお元気で」
 アルトが笑顔を作って、微笑みかける。それにビビアンが微笑みを返して、アルトに身体を近づける。一瞬だけ、心音がどきりと跳ねて包み込むようにビビアンがアルトを抱き締める。

「苦しいこと、悲しいこと、これからもいっぱいあるでしょうけれど……せめてその笑顔だけは忘れないで」
 耳朶を打つビビアンの声。人の心を解き解し、癒す抱擁の中でアルトが答えを返す前にゆっくりと身体が離れて、その温もりも緩やかに消えていく。余韻すらも、残さず消えて、代わりに渇いた穏やかな風がアルトを包み込む。肌寒さを感じる風は、次の季節を教えていた。


 彼方まで海が広がり、その向こうの空はまばらな雲が青を彩る。晴れているが、雲の少ない澄み切った空はどこか寂しさを感じさせる。
 その寂しさを地上に落とした色は、どこか濃い水であった。港には貨物船、旅客船、漁船など……大小、様々な大きさの船が停泊していた。
 人々もまた漁の準備やら、行商で取り扱う商品の確認や取り引きをしていたり、客船に乗り込むであろう冒険者や旅行者の姿で港は賑わい、街の雑踏とは違う活気がここにはあった。

 アルトたちも港の喧騒の中にいた。
 停泊した商船の一つに、ラクダから馬に切り替え、次の旅の準備を終えた商隊が寄せる。商船から次々と商材が降ろされ、幸福の果実の商人たちが荷物を馬車へと仕舞う。取り引きとなる金銭も商船へと積み込まれて、どれだけの金額がこの瞬間に消費されたかを考えると、眩暈がしてきそうだ。

 木材から微かに覗く商品は、ビンであった。刺激の強い香りが鼻腔を刺激し、少しだけ鼻が痛みを感じ始める。大量に仕入れたのは香辛料だとすぐにわかった。
 エドは身形のいい栗色の髪の青年と交渉している。見る限りではエドよりも年下の見る限りに穏やかそうな、優しげな顔立ちであったが、彼も商人であるだろうから場合によっては冷静さを垣間見せるのであろうか。尤も交渉は既に終わり、もう雑談に興じているだけだったが。

「今年は随分と遅かったな。不作だったのか、グプタ」
「いいや、うちの胡椒は毎年最高のものを作っている。王宮に献上するんだ。誠心誠意を込めねば失礼に値する。王宮でなくとも、お客様が誰であろうともね」
 グプタと呼ばれた青年が、手を木材の上へと置く。穏やかながらも、どこか自信に溢れた表情は自身が扱う商品に対して絶対の自信を持っているという自負の現れであろうか。
「不作ではなくて、ちょっと騒動があったからなのよ」
 言葉を繋いだのは、同じく身形のいい衣服を纏っている桃色の髪の女性だった。タニアと呼ばれた女性が続ける。

 タニアの生家は代々胡椒で商売を続けてきた名家で、その名声は遠く離れたポルトガにまで名に聞くという。現在は祖父が胡椒を生成し、その弟子であり入り婿のグプタが売り出す……そうやって商売をしてきた。
 今年の秋の始めに、人攫いの噂が流れ始めて街の中が不安な空気が流れていた。そんな中、グプタと原料を取りに行った際にタニアがはぐれて、そのまま街に戻らず噂の人攫いに攫われたのでは、とそんな噂が瞬く間に流れ、グプタは気が気ではなかった。
 しかし、タニアは戻ってきた。はぐれた際に崖から落ちて、足を挫いて動けなくなっていたのをある旅人に救われて、街に戻ることが出来た。その旅人というのが、

「あそこでカンダタさんに助けてもらわなければどうなっていたことか…感謝してもしきれないわ」
「カンダタってあのカンダタ?」
 ルシュカが尋ねて、たぶんと思ってアルトが頷いて頬を緩ませる。彼らがどうなったかは気に掛かっていたことであったから、ここで消息を聞けて安堵が胸に満ちる。
「良かった。ちゃんとやり直せているんだ…」
 カンダタたちが彼らなりの速度で前を見て歩けていることが、アルトにはただ嬉しかった。




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