示されたもう一つの道筋。 アルトたちとの別離。 ルシュカの心は揺さぶられたまま、答えを見出すことは出来ずにいた。 青空を優雅に舞い飛ぶ海鳥を見ながら、ルシュカはアルトたちとポルトガ国王が提供した船を見るために、港へ来ていた。 交易船、旅客船、軍艦と海洋国家らしく様々な船が停泊し、行き交う人の雑踏もまた賑やかであった。目まぐるしく入れ替わる人並みを越えて、準備をしている自分たちの船をその目にする。 戦列艦の一つで、ポルトガで量産されている最新鋭の船であるらしい。 見る限り、客船などと比べても軍艦と比例するほど船体は大きいのにも関わらず、どこかスマートな印象を与える。船首から飛び出るように突き出た衝角と、船反りの大きな曲線、聳える背の高い船尾楼が目を引く。帆は四本で、横帆と縦帆が組み合わせられ構成されている。 超長距離航海を目的として量産されているため、アルトたちの旅においても、この船は確かに相応しい。 船に乗り込み、甲板から白亜の町並みが高い位置から見上げることが出来た。海鳥になって空へと舞い上がる前、の見るような、そんな光景に一瞬だけ目を奪われる。まだ停泊している船でこれなのだから、出航した後に見られるものはどれだけなのだろうか。 そう思うと同時に胸が高鳴ってきて、ルシュカの胸に熱いものが押し寄せる。 熱さと同時に、影もまた差し込んでくる。これと同じものを見ると……決まったわけではないと。今の自分に突きつけられたもう一つの道を選ぶことだってある。 同じ景色を見るとは、限らない。それを感じて、馳せていた景色に色が抜けていくのがわかる。拳を堅く握って、ルシュカが目を細める。海鳥が踊る青空は、今は少しだけ目に染みた。 「どうした。船内に行くらしいから早くしな」 リーシャに促され、ルシュカが我に戻る。軽く頬を叩いてみせた。 「ん……わかった。すぐ行く」 リーシャの後に続いて、ルシュカも後に続いて、重い足を無理やりに動かして歩き出す。 木造ではあるが船内を案内されて、艦長室へと通される。座椅子から立ち上がった船長は大柄で、服の上からでもわかるほど引き締まった体躯をしていた。顔立ちは厳つく、刈り上げた髪型が余計にその雰囲気を強調してみせるのだろう。 「この艦の船長を務めることになったディーゼルだ。よろしく頼む」 目を細めて笑顔を作り、艦長が愛嬌を見せる。握手を求めて、手を差し出してみせた。 「こちらこそ、よろしくお願いします。アルティス・ヴァールハイトです」 アルトもまた笑顔を作り、差し出された手を握って応えた。見るから屈強そうな男だが、時折愛嬌を感じられる気安い男でもあるようだった。 「かつてネクロゴンドに艦長として赴いたこともある……オルテガ殿の勇名は私も勇気付けられたものだ。そのご子息の乗る船の艦長を勤められる事は私にとって誇りだ」 ディーゼルが目を細めて遠くを見るように目を瞬かせる。そうまで言われて、アルトは気恥ずかしさを感じたのか少し、視線を逸らす。 「こっちがこの船に乗り込むこととなった乗組員の二人だ」 ディーゼルに促され、恐らくは同年代であろう若い二人の乗組員が口を開く。 「じ、自分は船乗りのブリッドと申します! これが初の航海となります! よっ、よろしくお願いします」 上擦ったような、裏返った声で明るい金髪の少年が一礼をする。強張っているのか、気合が空回りしているのかはわからなかったが。 「私はレシィ。同じく船乗り見習いだよ。よろしくね」 アルトたちよりも、二、三年下に見える小柄な、褐色に焼けた肌をした少女が笑みを作ってみせた。 シエルたちも自己紹介して、名乗りを返す。促されて、ルシュカも必然的に彼らに名乗った。 他にも乗組員はいるのだが、その彼らの紹介は追々することになった。 ブリッドやレシィのような若い乗組員もいるのであろうが、国から斡旋されてきた彼らは優秀な人材なのだろう。他の乗組員は、それぞれで船の確認など既にそれぞれの仕事についている。万全の状態で船旅をするのには航海中はもちろん停泊中もまた、彼らにとっては忙しいのだとか。 無理もない。不備があれば、自身の命で支払うことになる。生きるため……安全な航海のためなのだから。 船長に案内されて、船の設備を見て周る。 食堂や広場、それぞれの寝室、医療室など確認して周る。 最新鋭の船の内部なために、本来なら好奇心が疼いてくるはずだが何故だがルシュカの心は熱くなることはなく、ただ説明を聞き流しながら連れ立って歩くだけだった。擦れ違う他の乗組員とも顔を合わせ、ディーゼルが彼らもまた、紹介する。 どこかぎこちなさを自分の中に感じながらも、場違いな感覚の方が自分の中で上回っているからだと、ぼんやりと実感できた。 それが何故かは、まだルシュカの心当たりはなかった。 一通り、案内が終わり、甲板へと出る。 急に青空が広がったためか、ルシュカが目を細める。今まで、船の廊下はぼんやりとしか明るくはなかったから無理はないが。急な陰陽の変化を口実にすることにした。 「悪い。ちょっと気分が悪いから」 「大丈夫? 気分が悪いんなら……」 「宿でちょっと休めば元に戻るって! 大袈裟だな」 心配するアルトに、ルシュカがぎこちなく笑って返す。 「一人で戻れるから、さ。あんまり心配はしないでよ」 それだけを言うのが精一杯で、逃げるようにルシュカは港を後にした。 理由なんてどうでもよかった。 あの場から逃げ出す口実が欲しかっただけだ。 居たたまれない場違いな感覚が押し寄せて、それに耐え切れなくなった。それだけのことだった。弾かれるようにして、足は動いていた。 ただの衝動に身を任せて、街を掻き分ける。 乱れた息を吐き出して、肺を冷やす。走り抜けて、ぼんやりと海を見つめる。街のどこまで走ってきたかわからない。でも、目の前には海だった。 逃げ出したときと同じく、目の前には海の青が燦然と輝いていた。日光が照り返す穏やかな日差しはそのままルシュカを照らしている。 まるで、逃げ場を失ったみたいだ。 自虐気味にそんなことを、ルシュカは思う。日差しは海の眼差しみたいで、あの場から逃げ出した自分を見つめているかのように、錯覚する。ただの感傷のはずなのに、それが的を射ているような気もしてきた。 渇いた笑いを、海に返す。砂浜の土の柔さは、今の自分の心象風景を足に伝えているようでもあった。 「どうしようもないな」 呟き、視線を落とす。 ―――どうしようもない。本当に。 逃げ出した理由なんて、本当はない。ただ、居心地が悪かったからだ。自分がいる場所はここではない……そんな考えが浮かぶほどに。 何故、と自問し、答えなどあっさり浮かんできた。 エドは、全てはルシュカ次第だと言った。 そう、全てはルシュカの気持ち一つ。 魅了されていた自分がいる。海を跨いで西の果てにある商人たちが集う交易都市。その言葉に、魅了され、心はもう既にそこにあった。 彼が旅立った目的は、親への反発もあったが商人としての自分の腕を磨くことだった。アッサラームやイシスで商隊『幸福の果実』と行動を共にして、食料、絹、武具など様々な交易品を目の当たりにして、それに見せられた。 だったら、まだ見たことのない地平には何があるのだろうかと、そこに好奇心は飛んでいた。 それは、表向きのものだ。 本当はもっと、心は濁っていた。 堅く拳を握る。知らずに、唇を噛んでいた。気のせいか、口に血の味が滲んでいた。 ―――ルシュカがいたから、ここまでやれたんだと思う。 そんな言葉をいつか告げていた。 そんなことはない。 そんなことはないのだ。 アルトは、きっと自分などがいなくても、前へ、前へと進んでいっただろう。アルトは、勇者なのだから。 「ここにいたか」 甲高い声が耳に響いて、振り向くと同時に吹いた海風に明るい金髪の髪が遊ばれていた。リーシャが舗装された道の上からルシュカを見下ろして、にんまり笑った。 足元に気をつけながら、砂丘をたどたどしく降りてきて、ルシュカの隣に立つ。 「なんで着いて来たんだよ」 ルシュカがむす、と言い、それにリーシャが別に、と言葉を返した。 「誰かが辛気臭い顔してるからよ」 目を細めて、紺碧の海を同じく見つめてリーシャが視線を落とす。 珍しく伏し目がちに海を見る翡翠の瞳はどこか艶っぽさを感じて、どきりとする。それもあったが、心象を見抜かれていて居心地の悪さを誤魔化して空を仰ぐ。 言葉を探すも、頭には何も浮かんでくることはなく、言い訳の言葉すら碌に出すことはできなかった。 「お前こそ、なんで抜け出してきたんだよ」 「船の説明なんて聞いてても仕方ないでしょ」 唇を尖らせるリーシャに、呆れ混じりの笑いが自然に浮かんでくる。尤も人のことを笑えはしなかったが。 「何を一人で悩んでんのよ」 「何をだよ」 少し攻撃的な言い方になってしまったが、今のルシュカは訂正するだけの心の余裕は持ち合わせていなかった。 「顔を見ればわかるわよ。いかにも悩んでますーって」 言われて、ルシュカは少しだけバツが悪くなり、海から視線を逸らす。周りから見れば、自分の考えが筒抜けみたいで気分が悪い。 「お前には、関係ないだろ」 「……そっか」 棘のある言い方で突き放して、意外にもリーシャはそれ以上追求はしてこなかった。ぼそっと、小さな声でリーシャが続ける。 「あんたが言いたくないんなら、別にそこまでして聞くつもりなんてない」 「ずるい……言い方だな」 リーシャがそうね、と小さな声で返して、うん、と大きく背伸びをしてから腕を後ろで組む。 「あいつは……アルトは今じゃ勇者やってんのが不思議なほどにさ。弱虫で、俺がけしかけないとなんもできないような奴でさ」 語るルシュカの横顔をリーシャがちらと横目で見やる。波打ち際のさざなみが耳の奥を通り抜けていく。冬も終わりかけの、弱い波の音だけ辺りに響く。 「それがあいつは勇者になって、誰かのために笑って、泣いて、……それでも前に進んでさ」 そこまで語って、波がまた一つ打ち付ける。それは、ルシュカの心の中の堰が崩れた音にも感じてしまった。だからもうだめだった。堰を切って、喉から言葉が溢れ出す。 「気が付けばあいつの方が前に進んでてさ。抜かれてるんだよ……昔は後ろにいた奴に! 追いつこうとしても! もがけばもがくほど…差が出てるんだよ……」 どんどん、どんどん差は開いていく。後ろにいたはずの奴が、前を歩いている。追いつこうとすればするだけ差は広がっていく。 ロマリアで盗賊を討伐するどころか改心させて、ノアニールでは人とエルフの差別の改善に尽力して、イシスでは魔族を打ち破って多くの人を救ってみせた。 全て、すべてルシュカの目の前で起きた、ことだった。 「認めようとしても否定しちまうんだよ! あいつも! 何よりも俺自身のことをさ! 数えれば数えるほど足りないものばっかでさ…!」 ルシュカが吐き出して、喉が痛みを覚えても思わず咳き込んでしまう。力は抜けて、崩れ落ちるように砂に膝を突く。熱かった。膝を伝う砂の熱は嫉妬を誘う声に似ていて、とても熱かった。 どうして、あいつはあれだけ前に進めて、 どうして、自分は何もかもが足りないのだろうか。 力も、血筋も、自分には足りないものばかりで、アルトばかりが……という考えが過ぎってしまう。そう在るためにアルトだって積み重ねてきたものがある。 素直にアルトを、幼馴染を称えてやりたいと思う。でも、それを否定してしまう自分は、ルシュカの裡でもう大きくなり過ぎていた。 エドが示した道は、今、選んでしまえば逃げた自分を肯定してしまいそうで。選びたいけど、選べない。二律背反はルシュカの頭を満たして、それが余計に苛立ちを駆り立てる。 乱れた息のまま、そのままルシュカの頭は項垂れる。 「幻滅したか」 それに、リーシャがううん、と弱く頭を振って否定する。 「それは誰だってあることだもん。私だって、劇団にいてビビアンさんや私より旨く踊れる娘とか羨ましかった」 言葉を切って、リーシャがルシュカに向き直る。それからリーシャが弱く笑った。 「でもさ、人は人。そう思ったんだ。そしたら、ちょっと楽になった。楽になれたから、自由になれた気がした」 「気楽に言うなよ……」 「経験者は語る、って奴だよ」 にんまりと、リーシャが笑った。その笑顔に影なんか、劣等感や嫉妬から来るものはどこにも感じられなかった。それは、やっぱり今のルシュカからすれば羨ましいものだった。 ルシュカは砂を払って立ち上がる。 「やっぱ、もうちょっとだけ時間がいるわ。悪いけど」 「アルトたちには、途中で休憩しているって言っとく」 悪い、とだけルシュカは言い残して砂浜を後にする。ぼんやりと、リーシャが後姿を見ているのはわかっているが、振り向くことはなかった。 宛てなんかなく、街を適当にぶらつく。海洋貿易で栄えているだけのことはあり、ロマリアやアッサラームに負けず劣らずの人混みだった。雑踏を掻き分けて、足は歩く。歩く。 斜陽の町並みに照らされて、ルシュカの影は深みを増して濃くなっていく。いつしか、喧騒は耳から遠ざかっていっていた。辺りを見渡してみても、見覚えのない路地だった。白亜の、似たような町並みだから気付かないうちに、離れていってしまったようだ。 引き返そう、そう思った瞬間に、ルシュカの目の前を光が瞬いた。
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