微かに残る太陽の残滓は、緩やかに闇に溶けてゆく。
 空は星空を覗かせて、昼は地平線の彼方へと追いやられていく時間。輪をかけて、夜闇が支配するのが早い路地の裏で、ルシュカは夜に抗うかのように瞬いた光に、目を眩まされて、思わず目を瞑る。
 光は、ゆっくりとした速度で闇に溶けて、ルシュカもようやく目を開くことができるようになった。何事かとまだ眩んで、やや霞む視界に捉えたのは何の変哲もない、中肉中背のどこにでもいそうな栗色の髪の男だった。

「あ、ええと、道に迷ってしまって」
 男と目が合って、ルシュカが取り繕うように先に口を開く。男が向き直って、穏やかな表情で目を細めた。
 錯覚であれば、ともルシュカが思った。
 強い光が瞬けば、当然そこに影は生じる。男から生じた影は、人の形をしていなかった。はっきりと視認できた訳ではなかったが、一瞬だけ捉えた影は馬の形をしていたようにも思える。
 イシスで見た魔族は変幻自在に自身の姿を変容させていた。その記憶が蘇って、ルシュカは男に対して警戒心を感じていた。

「そう、ですか」
 男が、少し安心したような顔を見せて、強張るルシュカに対して切り出す。
「見られてしまったんですね。昼の姿を」
「昼…?」
 男が告げた言葉に対し、ルシュカが疑問をそのまま返して、男がゆっくりと頷きを返す。強張っているルシュカに、それで何故警戒されているのか納得したのか、男が穏やかだが、どこか自虐気味に微笑んだ。

「私は人間です。これだけは、間違いなく言えることです」
 だが、普通の人間はあんな大柄な影を成すものなのかと疑問に思ったとき、ルシュカの頬を鋭利な痛みが走る。何事かと、下を見れば小柄な黒猫が威嚇していた。それにたじろぎながらも、猫は男の足元へと忍び寄った。

「やめるんだ。サブリナ」
 声で咎めて、猫が項垂れたような声を出す。男の陰に、猫の小柄な姿が隠れる。それにルシュカが面食らいながらも、平静を装う。
「彼女も、また人間です。今は猫の姿をしていますが」
 ルシュカが気返事しか出せずに、そんな彼の様子を男が嘆息混じりに笑う。

「信じられませんか。無理もありません。私も同じ立場なら、きっと信じられないでしょう」
 男の視線にふと、影が差して視線は自然と下へ落ちていく。
「これも何かの縁かもしれません。ここで話すのもなんですし、私の家で話しましょう」
「わかり、ました」
 ルシュカが頷きで返す。得体の知れなさを感じる相手だが、それ以上にどこかで誠実さを強く感じて、その誠実さに賭けてみてもいいと思えた。その誠実さは信じるに足るものであると不思議と信じられた。


 案内された男の部屋は、一人暮らしの男の部屋にしては小奇麗であった。よく掃除や手入れのされた部屋は、男性のものというよりは女性の部屋と言った方が正しいのかもしれない。
 男が自室のソファーに深く座り込むと、猫が男の膝に擦り寄って、そのまま上に乗る。くつろいで機嫌が良いのか、上機嫌に尻尾が泳いでいた。男が優しく猫を撫でてやると更に機嫌が良さそうにしていた。こうして見ていると、普通の男にしか見えない。

「それで、ええと」
「ああ…すみません。まだ名乗っていませんでしたね。私はカルロス。彼女はサブリナ」
 照れくさそうに笑って、男が名乗ってみせた。カルロスが記憶を辿るようにして、ゆっくりと言葉を語り始める。


 カルロスは、かつて冒険者であった。
 剣士として名を馳せて傭兵紛いのことをしながら生計を立て、各地を流離った。ギルドからも信頼が厚く、商隊や巡礼者たちの護衛の仕事を任されることも珍しくなかった。
 カルロスは一人で行動をしていたわけではなかった。相棒であり、恋人であったサブリナ。彼女もまた優秀な剣士で数々の戦場で、彼と共にあった。時に生還した喜びを分かち合い、時に魔物との戦いの高鳴りを共有しながら、カルロスもまたその生活に充実を覚えていた。

 ある時、ギルドから斡旋された仕事が切っ掛けだった。
 アッサラームからポルトガまでの間、商隊の護衛を引き受けることになった。珍しくもない……彼らの技量ならこなせる仕事だ。二人もまたこの仕事を楽観的に見ていた。
 彼らの願望は裏切られる。旅路の途中で、姿を現したのは魔物ではなかったのだから。

「何と、出会ったんですか…?」
「魔族です。あの威圧感……忘れようとしても忘れられるはずがありません」
 ルシュカが見やれば、カルロスの肌は粟立っていた。それを慰めようとして腕を猫が舐めていた。カルロスが猫を抱き締めて、ゆっくりと心の傷を語り始める。

 結果を言えば、商隊は全滅させられた。
 生き残ったものも何名かいたようだったが、混乱で散り散りとなり彼らがどうなったかはカルロスは知らない。生き延びるために、カルロスとサブリナは魔族に戦いを挑み、無残な結果となった。深手を負わせただけでは飽き足らず、魔族は彼らの運命を弄んだ。

 カルロスはそれが何なのかはわからなかった。だが、呪法のようなものを施してどす黒く、重たいナニカを傷口に染み込ませ、カルロスの裡を血潮の中を蛆虫が這いずるような熱さと激痛が駆け巡った。
 自分がどす黒い何かに塗り潰され、自分が掻き消され、何かに魂を掌握されていく感覚に気が狂いそうになりながら裡から痛めつけられていった。
 幾度も苦悶の声をあげて、喉が焼け落ちたかと錯覚してしまうほどに声すら喉を切り裂く刃であった。  それを幾度か繰り返して、気が付けば彼は生き延びていた。脳が溶けてしまったのではないかと、ぼんやりと朦朧とした視界で生を実感させられた。

 魔族はいなくなっていた。彼らにとってそれが失敗だったのか、それはカルロスには知る由がない。
 生き延びた代償として、カルロスは昼は馬の姿に、夜は人に戻ることができた。サブリナは昼は人の姿に戻れるが、夜は猫として過ごさなければならない。
 二人は、人の姿で触れ合うことができなくなってしまった。語らうことも、愛を確かめ合うこともできなくなった。ただ、互いの存在がそこにあるのに、寄り添うだけしか出来ない身体にされてしまった。


 カルロスが語り合えて、一息を付く。
 カルロスが目を細めて、遠くを見るような眼差しをしていた。視線は窓の向こうを、地平線の彼方の太陽を見つめているようでもあった。
「今は、ただ時の流れがとても怖く感じられるのです。朝の光は私の……人としての姿を奪い去ってしまいますから」
 堅く握り締められた拳は、震えていた。猫もまた、元気がない様子であった。

 当たり前にあるもの。
 太陽と月。
 人の生きる時間に寄り添って、傍に在り続ける物が二人の絶望を知らせるものになっているのだから。

 話を聞き終わって、ルシュカは何も言葉を発することができなかった。
 こんな時、あいつならなんて答えるのだろうか。思惟に幼馴染の姿が過ぎって、唇を噛む。
 ただ一言だけでも、通りすがりでしかない自分が言葉をかけられるはずもなかった。余計に自身の無力さを痛感してしまった。
 大丈夫だと、その一言が言えることがこんなにも遠いことだと自覚させられる。それを口に出来るのは、問題を解決できるだけの決意があるときだけだ。解けるかもわからない呪いに対して、大丈夫だなんて言えるはずもない。
 ルシュカもまた、拳を強く拳を握り締めて、ただその無力さに浸るしかなかった。

「どうやら、気分を害してしまったみたいですね。すみません……」
「い、いえっ……そんなことないです!」
 ルシュカが慌てて頭を振る。
「でも、どうして俺なんかに話したんです? こんな重要なことを……」
 ルシュカはただの通りすがりでしかない。あの場所にいたのだって、カルロスの家にいるのだって偶然でしかない。身の上の話を聞いたところでどうすることもできないのに。
 そんなルシュカに、カルロスが唇に手を当てて思案をし始める。

「そうですね。言われて見ればその通りですね……」
「そうですねって」
 ルシュカがずっこけて肩を落とす。カルロスが吹き出して笑って、その後に告げる。

「貴方だったからでしょうか」
「―――え?」
 ルシュカが目を丸くして、カルロスの瞳を見つめ返す。
「普通の人であれば錯覚であると思うか、逃げるか……ですが、貴方はそうしなかった。だから、私たちのことを聞いて欲しかったのかもしれません」
 カルロスが言葉を区切って、ルシュカが次の言葉を待って息を呑む。

「逃げるでもなく、誤魔化すでもなく、今、目の前にあることをちゃんと受け止めようとしている……そんな風に見えたからでしょうか」
 カルロスが照れくさそうに笑って、目を丸くするルシュカに言葉を投げかける。
「ただ行き当たりの戯言と思ってくださっても構いません。ですが、私にはそう見えたのです」
 告げられた言葉に、どう答えを返して良いのかルシュカは言葉を思いつかなかった。だが、それは嫌なものでは決してなかった。

 ―――誰にだってあることだから。

 リーシャの言葉が蘇る。
 アルトと自分と比較して、ルシュカは戦いの才能も、誰かのために戦えることを……そんなアルトの姿が眩しかった。だから、羨ましく、そうじゃない自分に劣等感を覚えていた。
 それでも、アルトの不幸を願ったことはなかった。親友の隣に立てない事実だけが、ルシュカの心に囁きかけていただけだった。それだけのことだった。
 自分が足りないからこそ、それを満たす何かを求めていただけのことだった。
 アルトと共に戦えない自分に対して、その事実を受け止めようとしてもがいていた。苦しんでいた。だが、その苦しみは少しずつだが重みが消えていく気がした。

「確かに私たちは特殊かもしれません。ですが、受け止めようとしてくれている貴方の姿勢がとても好ましいのです」
「話を聞くだけしか出来ませんよ。それでも…」
 それでも、だと言ってカルロスは朗らかに微笑んだ。

「失った時間を取り戻せるだけの、力もない……俺は、ただの子供です。それでも。それでも、力になれたのでしょうか」
 ルシュカが熱を持って言葉を吐き出して、カルロスは笑顔に応えた。
「サブリナとの時間は、もう戻ることはないでしょう。ですが、私たちの心は離れない……互いの存在を、感じてそれぞれの時間を生きることならばできます」
 呟くように言ったカルロスは、サブリナを撫でる。

 今も、人として語らうことは出来なくともそれぞれの時間は耐えずに流れ続けている。
 それは、孤独であるのかもしれない。互いの鼓動を感じて、温もりは決して消えることはない。積み重なってきた時間は消えることはないのだから。
 それを忘れなければ、きっと独りではない―――。



 太陽は海原へと消えて、街は夜を迎えた。
 カルロスの家を後にしたルシュカは真っ直ぐ宿へと歩く。活気が消えた港町を月明かりが柔らかに包み込む。透き通る蒼だった海は、紺碧へと色を変えていた。立ち止まって、海をルシュカが見つめる。

 道は示されている。
 そのどちらを選ぶかはルシュカ次第。エドの言う通りだった。
 全ては、ルシュカの心が選ぶしかない。二つの道標は目の前にある……選べるのは一つだけ。今まで通り、アルトたちと旅をするか、エドたちと西に向かうか、その選択をしなければならない。
 それぞれの時間は、流れ続けていく。
 ルシュカがどちらの道を選択しようとも、それぞれの時を、それぞれの道筋で刻んでいくのだろう。

 ルシュカがゆっくりと目を瞑る。風が髪を弄くって、夜空へと舞い踊っていく。冷たくはあったが、どこか温い風は旅立ったあの日を思い起こさせる。
 アルトとはずっと一緒だった。少しだけ前を歩いて気弱な少年の手を引いて、ルシュカは少しだけ前を歩いてきた。だが、いつしかアルトは自分の前を歩いていた。アルトにはアルトの時間の中で歩み続けて、呼吸を続けてきた。兄を失っても、自分の信じるもののために。
 それを羨ましいとも思える。だが、自分には自分にしか出来ないことがある。

 それを知りたい。
 ただ流されるのではなく、足りないものを数えるのではなく、自分に出来ることを数えて、歩む。傷も、痛みも、嫉妬も受け入れ、呑み込んで、それでも。

「やって……やるさ」

 いつか、自分に出来ることを必ず見つけ出す。今はまだ遠くとも、ルシュカに流れる時間の中で掴んでみせる。揺るがない確固たるものを。
 ゆっくりと、ルシュカが目を開く。
 歩き出して、その歩みは真っ直ぐに、止まることなく足は動き続けていた。




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