空は祝福するかのように、青々とした空が広がっていた。
 吹き抜ける大海原を海鳥たちの群れが舞い上がっていき、空へと旅立つ。白い雲と、踊る白い海鳥が大空を蒼と白に染め上げる。冬と春の境の風の中を、楽しげに鳥たちが羽ばたいていた。
 鳥の鳴き声は幾重にも反響し合って、その間を滑るように船が通り抜けていく。港の風景に混ざって、アルトたちもまたそこにいた。

 船の航路は、もう決まっている。
 ネクロゴンド大陸を陸沿いに進んで、アッサラーム沖から更に西へと船を進める予定となっている。
 目的地のダーマは目測として四ヶ月余りで到着できる見込みとなっている。
 もちろん何の問題もなければの話となるが。船旅では予測も付かないことが度々起こるため、更に時間が掛かることも珍しくないらしい。

 吹き抜ける青と蒼と狭間の世界……大海原へと乗り出す。
 今までは陸路での旅だった。草の海、砂の海……穏やか日差し、纏い付く熱気を帯びた地、灼熱と極寒を繰り返す世界。様々な場所を巡り、アリアハンにいた頃では、見聞き出来ないものを数多く見てきた。その一つ一つに目を奪われ、時には穏やかな静かな風を、時には過酷な熱砂を肌で感じてきた。
 新たな開けた地平線へと向かう。それまでは眺め、見つめるだけだった青の地平線の向こうへと漕ぎ出すのだ。アルトの心はざわめいて、高鳴っていた。

「ここ数ヶ月、君らと旅が出来てよかったよ」
「こちらこそ……ここまでありがとうございました」
 ロマリアでエドたちの商隊に加わってから、アッサラーム、イシス、ポルトガと巡ってきた。苛酷な環境での知恵や、宿や食料といった支援に支えられてきた。それに加えてポルトガの最新式の船まで、王に掛け合ってくれた。彼らの好意には感謝しきれないぐらいだ。

「いいや、こちらこそ、な……勇者というものをこの目で確認させてもらったよ」
 エドが目を細めて、微笑んだ。
「安全な航海になることを祈っているよ。君たちなら心配はいらないだろうが…」
 エドが言葉を付け加える。どこか意味有り気な言葉に、引っ掛かりを覚えながらもアルトが笑みで返す。細めた目の奥に、何か影が過ぎったような……しかし、その真意を確認することは出来なかった。

「なんというか…あっという間だった気がします。だけど、とても長かったような」
「旅というのは、そういうものだよ」
 エドがひとりごちるように言う。
「振り返れば短かったようにも感じるが、実際に過ぎてみれば長かったようにも思える。だが、その中で実りというものは必ずあるものさ」
 満足気に言うエドに、それにあまりアルトは実感を得られないでいた。まだ君が若いからだとエドは失笑していたが。

 旅の中で出会ったロマリア王やカンダタ、ビビアン、『幸福の果実』の面々など……数多くの出会いを辿れば、アルトの記憶で過ぎ去った時間は一瞬のうちに流れていく。
 だが、その一つ一つを短くは感じることは出来ない、掛け替えのないものだった。今の少年の輪郭を形作るもの……自身に積み重なった時間は今も耐えず流れている。
 もう少しだけ、時が流れて、歳を重ねればその言葉の意味もわかるようになるのだろうか。ぼんやり、とアルトはそんなことを思う。

「元気でやれよな。まあ、俺が言わなくともお前らなら心配はいらないだろうがな」
「貴方たちの旅に、神のご加護がありマスことを、願っていマス」
 近寄ったグスタフのごつごつとした掌に乱雑にアルトの頭を撫でられ、フォッカーも胸元で十字を切って神の加護を示してみせた。

「また会えたらな」
「会えるさ。また旅が出来たんだからな」
 バーディネが素っ気なく答えるが、口元は僅かに緩んでいるようにも見えた。

「フォッカーさんもお元気で」
「神は常に貴女と共に在り、道を示していマス。それを努々忘れないようニ…」
 シエルが小さく、はいと頷いていた。それに満足気にフォッカーが頷いた。
 二人だけでなく、モニカや他の商人たちも別れを惜しんでいるようでもあり、まるで家族と別離するときのような、そんな寂しさが胸にふっ、と差し込む。期間としてはそう長くはなかったかもしれないが、彼ら『幸福の果実』の面々との旅はとても賑やかであった。

「さて、と。引き止めるのも悪い、そろそろだな」
 エドが促して、アルトたちもまた出航のために船に乗り込まなければならない。
 別れの時が来た。
 エドたちからの餞別は食料品やらはもう既に船に積み込んである……ここまで世話を焼いてもらって彼らには感謝の言葉もなく、なんて言葉にしたらいいのかわからないぐらいだった。
 エドの手がルシュカの方に置かれて、行動を促しているようでもあった。それに、ルシュカが大仰に首を振る。翡翠の瞳は堅く、決意のようなものが宿っていた。強いものは、アルトたちに注がれて一歩、ルシュカが踏み出して、アルトの目の前に立ってみせる。


「俺は、ここからは、一緒に行けない―――」


 アルトの藍色の瞳を覗き込んで告げられた言葉ははっきりと、別離を告げていた。
 ルシュカの眼差しに冷やかしや冗談の色は全くない。彼の唇から告げられたものは、選んだもので、示したものでもあった。
 アルトが目を瞬かせて、時が止まったような一瞬の中で、またルシュカが繰り返す。

「俺は、エドさんたちと一緒に行くことに決めたんだ。ここまで黙っていたのは悪い。悪い……お前らとの旅はここで終わりなんだ」
 ルシュカが軽く、唇を噛むが、その翡翠の眼差しは真っ直ぐにアルトを射抜いていた。アルトとルシュカの間を春先の風が吹き抜ける。その風はあの日の、一緒に旅立ちを決めた時の風に似ていた。
「俺は商人として、もっともっと……色んなものを見たい。そう思ってる」
 アルトの戸惑いを余所に、ルシュカが言葉を続ける。
「旅立つときに言ったよな。自分を磨いていきたいって、一人の商人として考えて、選んだんだ。この答えを」
 堅く、ルシュカの拳が握り締められていた。ルシュカの決心は嘘偽りなく、彼の本心から選んだものだと、理解できた。

「―――そっか」
 やっと、アルトが声を絞って、真っ直ぐに幼馴染に向き直ってみせる。
 ただ、真っ直ぐに……真っ直ぐにアルトを見据える視線に迷いはなく、影は消えていた。驚きも戸惑いもまだある。視線を受け止め、アルトが真っ直ぐに見つめ返す。

 きっと、苦悩や葛藤はあっただろう。
 それでも、ルシュカはその決断を選択した。他の誰でもなく、自分自身が導いた答えとして。だから、こうして面と向かって言葉に出来る。
 迷いも、葛藤も、それを受け止めたからこそ、ただ流されるのではなく、自分で考えて、決断したから胸を張って、アルトの前に立っている。

「俺はずっと、お前が羨ましかった」
 独白染みたルシュカの言葉に、アルトは瞳孔を狭めていく。
「そんな……僕は僕に出来ることをやっているだけだよ。これまでも、これからも」
 言葉を受け止めて、アルトが言う。自分自身が出来ることをやってきた。誰かを笑顔を一つでも守りたいと。その覚悟を背負ってやってきただけだった。そんなアルトの思いと裏腹にルシュカが続ける。

「お前は誰かを守れる力を、自分で運命を切り引けるだけの力がある。そんなお前が羨ましかった。お前と違う自分を……足りないものを数えるようになってたんだ」
 ルシュカの声が震える。震えた声で、自身の心を吐露する。
「だからさ……俺に出来ること、俺にしかやれないことって奴を知りたい。知りたいからこそ、海の向こうを見てみたいんだ」
 あの後で、ルシュカが照れくさそうに笑ってみせた。

 ここで、ルシュカと別離する。
 アリアハンから続いてきた…否、それよりもっと前、幼い頃から傍にいた友人との明確な別れだった。  もう会えるかもわからない。
 もしかしたら今生の別れにもなるかもしれない。

「そんな辛気臭い顔すんなよ。別に、これでまた会えない訳じゃないってのに」
 そんなアルトの心情を察して知らずか、ルシュカが苦笑する。ルシュカの視線は下に落ちていった。何かを言いよどんで、唇が迷っていた。
 ここでの別離を彼もまた、わかっているようだった。

 それでも、それでも、今は互いの道を進まなければならない。
 新たな道はもう交わることはないかもしれない。別れに背を押されて、思い出が思惟を過ぎって、これまでの時間とは違う時間をそれぞれで刻んでいく……。

「絶対、大丈夫。ルシュカならきっと」
 春の風は、旅立ちのときを告げて、その中でアルトがただ、微笑んだ。
 寂しさと郷愁に後ろ髪を引かれるが、彼の選んだ一つの決断を無碍にするなんて出来ない。だったら、アルトもまたそれを受け止めて、ただそれぞれの道を行く幼馴染を祝福しないと。
 ルシュカならきっと見つけ出せるだろう。彼の時間、生きていく道筋の中で、必ず彼にしか守れるものはきっと見つけ出せるだろう。一人の友達としてそれを応援したかった。

「だったら私も、あんたと一緒に行かないとね!」
 背後からリーシャが、ルシュカに抱き付いてにんまりと笑った。
「何でお前が付いて来るんだよ!?」
「えー……私がそうしたいからに決まってるじゃん。異論は聞かないからね。はい決定!」
 強引にリーシャが決定して、ルシュカが嘆息する。何だかんだで、ルシュカも満更ではないようだ。

「本当に、それでいいのかよ…船旅だぞ」
「もちろんよ。何言ってんの。それはアルトたちだってそうでしょ? 私は行きたい方に行くったら行くの!」
 さも当然のようにリーシャが言って、ルシュカが呆れたような感心したような溜息をついた。

「ううーっ、ルジュカ君」
 もらい泣きでもしたのか、何故かシエルが泣いていた。
「ってなんでシエルが泣いてるんだよ!?」
「だって、だって…」
 シエルもまた小さい頃から、一緒にいた。
 幼馴染みの別離には何かしらの思うところがあったにしては泣き過ぎのような気がしないでもない。見かねたメリッサがハンカチを差し出してそれで涙を拭っていた。

「女泣かして悪い奴ねー」
「うっさいわ!」
 メリッサが腰に手を当てて、ルシュカが噛み付くように喚いた。その後、互いに吹き出して笑った。
「まあ、元気でやりなさいよね」
「お前こそな」
 あっさりとした言葉で簡潔なものだったが、別れの言葉としては十分なものであった。

「さて、そろそろ時間だ…」
 エドが切り出すのと同時に、船から船員が出てきてアルトたちに出港準備を告げる。刻限はもうそこまできている。時間が流れ出す。
 流れ始めた時の中でアルトはルシュカの顔を見やった。それに気が付いてルシュカもまたアルトの顔を見つめる。何かを言おうと考えたが、いい言葉を思いつくことはなかった。

「待って」
 エドを静止して、二つ結いに髪を結んだ凛とした雰囲気を纏った少女がアルトたちの前に立つ。武闘家の少女ユイがアルトたちの前に立ってみせた。
「どうしたんだ、ユイ」
「商隊に同行しての旅は私もここまででいい。ここから先は彼らと共に行きたいと思っている」
 迷惑だろうか、とユイがアルトを見やる。迷惑な訳ではない。そういうわけではないのだが突然の申し出に、戸惑う。
 彼女の力量は見ている。武闘家として磨き上げられた力量は大したものだ。そこらの男では相手にもならないだろう。そんなユイが何故アルトたちとの旅を望んでいるのか。

「でも、いいの? だって僕たちは」
「わかってる。最終的には魔王に挑むのでしょう。だからこそ私は貴方たちと共に在りたい。私は強くなりたくて旅をしている。あくまで私の利害のために一緒に行きたいって言ってるだけ」
 真っ直ぐにアルトを見つめる眼差しは真剣そのものだった。まじまじと見つめる整った貌は綺麗で、凛とした雰囲気がよりその貌を美しく見せてどぎまぎとしてアルトが一瞬、視線を逸らす。

「うん、わかった。そこまで、決心があるんなら…」
 ユイの決心は紛れもなく本物だというのは十分に伝わってきた。それを断ることはできないようだった。
「よろしくね。ええと、ユイさん」
「ユイでいいよ。こちらこそよろしくね」
 ユイが差し出した掌をアルトも握り返す。すべすべとして、歳相応の少女の手だった。この手が魔物を粉砕する拳だとは、こうしていると信じ難かった。

「じゃあ、決まりだな」
 エドに肩を叩かれて、アルトが頷きを返す。去る者と加わる者。入れ替わって、まだ旅は続く。出航の時は近づき、別れに背を押される。

 一瞬だけ、ルシュカと目と目が交錯する。
 別れ行く友達は、片手をアルトに向かって突き出して応えてみせた。それにアルトも応えて、片手を前に出す。ルシュカはにんまりと笑っていた。

 それぞれの足で、もう歩み始めていた。船に乗り込んだ後はすぐに船は港から出港した。
 甲板から離れていく港を、アルトは身を乗り出して遠く彼方に見えなくなるまで見つめていた。




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