どこまでも続く突き抜けるような青が、空の、地平線の向こうまで続く。
 少し肌寒く、だがどこか温い風は次の季節を教えていた。空の青と海の蒼の狭間を、船は順調にポルトガからネクロゴンド大陸を南下していた。だが、風は春だけを告げはしなかった。
 どこか淀んで息苦しさも風は運んできた。無理もない。魔族たちが蹂躙し、支配下になったネクロゴンドの沿岸を進んでいるのだ。重苦しさと威圧感は肌に纏わり付くようだ。

 魔王に侵略された地、ネクロゴンド。
 世界屈指の魔法大国として名を轟かせながらも、魔王によって滅ぼされ、その本拠地としてのみ名前が残るかつての大国。盟主国であったロマリアの呼びかけで、アリアハンを始めとして集った遠征軍をも最終的には撤退を余儀なくされた。
 その果てに、アリアハンの勇者であった父オルテガが単独にて挑むことになった。全てはこの大陸から始まった。全ての真実は、黒で塗り潰された中枢の底にあるのかもしれない。


「か、勘弁してくださいぃぃぃ〜!」
 そんな青空の下を、すっとんきょうな悲鳴が響いた。
「逃げ回ってもだーめ! ほら、さっさと洗濯しちゃうんだから」
 と、シエルとメリッサのやり取りが繰り広げられていた。ぱたぱたと衣服を剥ぎ取られるのを阻止すべくシエルが逃げ回り、それをメリッサが追っかけていた。

「わっ、わたしは仮にも僧侶なわけですし人前で素肌を露出するわけには…!」
「だからこれを切ればいいでしょ!」
 メリッサが腰を手を当ててみせた。

 メリッサが身に纏っている衣服は覆うところが少なく、露出度の高い「びきに」というものらしい。胸元と腰の辺りしか覆われておらず扇情的で、とても魅惑的で、見ようによってはとても恥ずかしい。
「だから、それが嫌だと言っているんです!」
 シエルが大袈裟にぶんぶんと首を横に振る。僧侶であるシエルからすれば露出の激しい「びきに」を着るのはそれそれは抵抗があることだろう。何の抵抗もなく着るメリッサもメリッサもだが。

「捕まえた!」
「でかした!」
 がばっと背後からシエルに抱きついた小柄な影、レシィが背後からシエルにしがみ付いて、メリッサがぐっと拳を握り締める。
「は、放して……はっ!?」
 放してぇぇぇ…という叫びを残してずるずるとシエルが引き摺られていった。

 甲板の上で、また小さく震えている身体を白いタオルで覆ったシエルがぶるぶると涙目になっていた。
 そんなメリッサはその横で洗濯物を帆に干していたが。
「なんというか、…いや、女としてなんかこう」
 隣でぶつぶつで言っていた。たまにありえんなどと言っているのは若干異様だった。

「だ、大丈夫?」
「はい………なんとか」
 アルトが声をかけて、白い布で身体をすっぽり覆い隠したシエルが見上げてからゆっくりと項垂れる。アルトも旅装束は洗濯されて干されていて、今はシャツと短パンだけだったが。

「なんというか……災難だったよね」
「全くです……」
 アルトが隣で座って、涙目で縮こまるシエルを少し可愛いと思った。それを意識した瞬間に、心音が一気に跳ねて、顔面が火傷したように熱くなった。
「何ですか…?」
 むすっと言うシエルに、アルトがぶるぶると大振りで首を振ってなんでもない、と誤魔化した。シエルの足先がすっと白い布に吸い込まれていった。

 半眼でシエルがアルトを見やる。シエルがまじまじと見つめて、その眼差しにアルトが視線を逸らす。
「な、何…?」
 アルトが俯いたまま聞き返して、シエルが何度か何か言いかけて唇を迷わせてから、頬をうっすらと紅く染めて白い布に顔を埋める。
 それを見たアルトが小首を傾げる。何か気に障ることでもしただろうか、と罪悪感が湧き出てくる。何か言わないと、そう思うが気持ちだけが空回りして片手で顔をくしゃくしゃと掻き毟る。

 視線を合わさないままの、緩やかな時間が流れていく。
 気まずいまま、互いに言葉を発さないまま、ただ時間だけが流れていく。
 ぼんやりと、見上げた空は広大で、白い雲が優雅に流れ去っていく。

「上手く言えないけど、なんかごめん」
 アルトが頬をかいて、視線を逸らす。何故だか直視することができなくて声も小さかったが。小さく、シエルの身体がびくりと動いた。
「なんで謝るんですか…?」
 布越しの、くぐもった声がアルトの耳に届く。それは、その、と口篭る。
「あの、やっぱり…」
 小さく縮こまっていたシエルも、言葉に出そうとして言葉を踊らせる。意を決したのか、白い布をきゅっと握っていた。

「やっぱりアルト君も男の子ですから…みっ、み、水着とか興味はあるんでしょうか。例えばわ、わたしなんかでも」
 それだけ言うとシエルが黙り込んでしまった。
 一瞬だけ時が止まったような、気がした。
 アルトが息を呑んだ。言葉に出すのを、若干躊躇った。唇はただ感情のまま動いていた。

「見たい。……凄く」
 小声で、それだけ言うのが精一杯だった。顔中が熱くなって、とても顔を上げてなんかいられなかった。

 しゅるり、と。
 タオルが落ちる音が聞こえて、ゆっくりとシエルが立ち上がる。躊躇いがちに、アルトも顔を上げる。見上げれば、すぐそこに小さな太陽があった。
 眩しかった。
 白く透き通った肌に、ほっそりとした肢体が黄色い水着に栄えてとても眩しかった。鎖骨の滑らかさや、くっきりと谷間に影を残す豊かな胸、日の光を浴びてきらきらと輝く空色の髪……シエルの水着姿は見ているだけでも息を呑んで、とても眩しい。

「やっぱり、似合わない…ですよね。わたしじゃ」
 まじまじと、小さな声で自信なさげに呟いてシエルが視線を落とす。
「そんなことないよ。なんというか、言葉が思いつかないよ……あんまりにも似合ってるから」
 それだけを言って、アルトが照れ隠しに微笑んだ。顔中を真っ赤にして、シエルが硬直していた。とろん、とした目でアルトをただ見つめていた。

「あっ、……ありがとうございます」
 シエルがはにかんで、飛び切りの微笑みを浮かべた。真夏の向日葵が咲き誇ったような……そんな可憐な笑顔だった。

 向日葵は日の光を浴びて、咲き誇る。
 今のシエルはどんな花よりも綺麗で、愛らしかった。
 そんな彼女を見て、跳ね上がる心音すら心地のいいものと感じられる。そんな二人だけの小さな陽だまりのような時間が緩やかに流れていく。
 のんびりと流れていく穏やかで、ささやかな一時。

 ―――そんな、時間は長くは続かなかった。


 青空が陰りを見せた。黒い雲が青を隠して、日の光を遮る。
 風は急速に冷え込んでいく。季節を逆行して荒れる風は波を猛々しい牙へと変貌させて、容赦なく船を揺さぶる。幾度となく船に襲い掛かってくる。海が猛っていた。
 のんびりとした時間は、メリッサたちは洗濯物を慌てて、船内に戻してアルトたちはそのまま待機を船長であるディーゼルから命じられる。
 無理もない。操船技術は彼らに一日の長がある。素人であるアルトたちが出しゃばったところで沈没の可能性が大きくなってしまう。今は彼らの技量を信じ、祈る。今はアルトは着替え終わって共通の食堂で待っている。船内は不思議と揺れは感じなかった。

 アルトの他にも、シエルやバーディネたちが食堂に合流する頃には揺れはほとんど感じなくなっていた。地図を広げて、魔力を帯びた羽ペンは現在の行き先を指し示す。
 ネクロゴンド大陸の暗礁地帯の近く。ネクロゴンドに吸い込まれるような、そんな軌跡を描いて船の行く先をなぞった。暫くして船はネクロゴンドの河に入った三角地帯で船の動きは完全に停止した。

 ディーゼルを始めとしてブリッド、レシィに続いて大柄の男が入ってくる。
 ガスターと紹介されていた巨躯の男は寡黙で強面ではあったが、真面目で実直な人柄からディーゼルが長年、頼りにしている船乗りだった。

 現在の状況は大陸沿いに船を停泊させて、嵐をやり過ごす。それが現状であった。まだ波は荒く、航海を続けるのには危険が大きい。だが、長い間、船を停泊させておくのもまた危険が大きい。
 ネクロゴンド……魔族たちが支配する地。何が起きるかわからない場所だ。危険を承知で進むか、危険を承知で留まるか。

「長く留まれば、それだけ危険が大きくなっていく、か」
 険しい眼差しで、バーディネが地図の現在地点を見下ろす。
 いつまでも、このまま留まればそれだけ敵襲の危険が大きくなっていく。しかも逃げることもままならないのだから、八方塞だ。バーディネが短く息をついたまま、決断を下したようだった。

「哨戒に出てくる。陸と海の両方からの挟撃されるわけにはいかないんでね」
 浅瀬で大型の海の魔物に襲われる危険はないとはいえ、小型の海の魔物や陸の獰猛な魔物が船に襲撃を仕掛けてくる危険はある。
 告げたら行動は早く、バーディネは外套を羽織って船外へと飛び出していこうとする。

「待って」
 アルトが、バーディネを呼び止める。勢いのまま、バーディネが一瞥だけしてアルトを見やる。
「僕も一緒に行く。この状況で一人で行動するのも危険だよ。一人よりも、二人の方が効率はいいと思うけど」
「好きにしろ。言った以上はな」
「言われなくとも」
 アルトが唇を引き締める。こういう斥候は盗賊の出番なのは確かだ。だが、踏み出すのは前人未到の魔の領域。警戒はしておいては損はない。

「だったら、わたしも一緒に」
 ぐっと杖を握って、シエルが目を細めて微笑む。アルトとバーディネの二人が向き直る。
「危険は承知の上です。ですが、僧侶は危険が付き纏う側に同行した方がいいと思うので」
 シエルの言い分はわかる。治癒の呪文を持つ彼女はより魔物と遭遇する危険が高いアルトたちと同行するのが最善で、何より彼女の目は堅く、瞳に宿ったものは強かった。

「パーティはアルティス、バーディネ、シエル、それに私が今回はいいみたいね」
 それまで聞き役に徹していたユイが傍に寄り提案する。
「あたしは今回は残る。誰かが船を守らなきゃだしね!」
 メリッサは辞退し、今回はこの面子での上陸が決まった。決まれば、行動は早く甲板へと飛び出す。

 風は冷たく、猛り狂っていた。時折黒雲が唸りを挙げていたが幸いにも雨は降っていなかった。
 ガスターとレシィが二人がかりでハッチを降ろして、切り立った崖に船と陸を繋ぐ道が出来ていた。
 バーディネ、ユイがまず地面を踏んだ。次にアルトの番が来て、不安定な板を暴風に煽られながら踏む。後ろにいるシエルを気遣い、手を差し出して彼女の手を引いて、抱き寄せる。シエルの頬は紅くほんのりと染まっていた。そのまま、大地を踏んだ。
 シエルが一礼して、ゆっくり身体を離す。アルトが微笑んでから頷きで返した。

 久々に降り立った大地は安堵とは無縁のものだった。
 絶えず荒れ狂う暴風に、揺さぶられた木々のざわめきは呻き、絶叫、慟哭にも似てけたたましく鳴り響いていた。どこか淀んだ大気が肌に纏わり付いてくる……そんな気がした。

「いつでも出られる準備をしておく!!」
「アルトさんたちも速く戻ってきてくださいっす! ご武運を!!」
 強風の中、ディーゼルの怒鳴り声に続いてレシィも声を張り上げていた。大きくアルトが手を振って応えた。踵を返して深い森へと足を踏み入れる。

 踏み入れた鬱蒼とした森は本当なら日光浴に最適そうな、静かな森だ。
 だが、今はその静けさが不気味さを纏う。致命的に欠けているものがあった。生物の気配だ。鳥の鳴き声、動物の足音、虫の羽音……様々な生物が一つの音となって、森に生命を奏でる。しかし、この森にはそれがない。狂える風が過ぎ去って、木々の絶叫のみで他の音は一切反響することはなかった。
 人のみならず、この大陸で生きるものは悉く魔王の糧になったのかもしれない……そんな考えがアルトの思惟を過ぎって、背筋をナイフでなぞったような怜悧で、冷たいものが伝っていく。

「……なんか嫌な感じが」
 シエルが辺りを見渡して、呟くような小さな声で言う。
「無理はしないで。無理ならすぐに引き返すよ」
 気を遣うアルトに小さくシエルが頷いて、大丈夫ですと微笑んだ。でも、顔色も唇の色も良くはなく、空元気のようでもあった。

「今のところ、魔物の気配はない。だが…」
「なんか空気が重たい。淀んだ沼の中を進んでいる……そんな不快感がある」
 バーディネに同調して、ユイが目を細める。
 黒い何かが、身体にどこまでも付き纏ってくる。そんな感覚がずっと身体から離れない。アルトもずっとそれは感じていた。

 これが、瘴気なのであろうか。
 普段人が呪文の根源として恩恵を得るマナの対極にあるもの。時に魔族を生み出して、魔族が人がマナを糧として呪文を放つように魔族の呪文の糧となる。言わば魔界から発生する黒いマナ。それが瘴気だった。
 それが領域に満ちているとなれば、長居は本当に危険なのかもしれない。

 どれだけ、歩いたか。
 開けた場所に出る。ここからどこまでも黒い瘴気を纏った森を一望することが出来る。一息を付く。見てみれば、どこかシエルの顔色が悪かった。
「もうそろそろ戻ろう。船から離れすぎるのも得策じゃないし…」
「……だな」
 バーディネがどこか押し潰されそうな黒い空を仰いで、アルトに同意した。アルトが唇を噛んで、拳を堅く握り締める。

「しっかりしろ。心配なのはわかるが、お前まで呑まれてどうする」
「そう、だよね。ごめん」
「謝るな。今は行動するだけだ」
 バーディネがアルトの目を見やって、叱咤する。叱咤に背を押されてアルトが頬を軽く叩く。しっかりしろと、自分に念を押して行動するように焦りを振り払う。

 その瞬間だった。
 視界の全てを赤いものが過ぎ去って、黒い光が森の彼方から迸った。
 雄大な森の全てを包み込んで瞬いた黒い閃光は、境界を歪めて視界の全てを黒以外の彩色しか存在しない世界へと形を変える。
 目に力を込めて、細めて目蓋を開く。曖昧にしか捉えられない視界。
 爆ぜた黒い極光は全ての輪郭をぐにゃぐにゃに歪めていく。言いようのない浮遊感が襲う。一瞬のような、長い時が経過したような……時間の感覚をも破綻させて、身体は黒の世界に溶けてしまったようにも思えた。

 境界が定まって、ゆっくりとゆっくりと輪郭は形を成していく。
 遠退いていた感覚も戻ってくる。人が行き交う町の喧騒、賑わいのような気がしていた。何故だかはわからないが。

 街だった。人の命が途絶えた地に、何故か存在する町の喧騒の中にアルトたちはいたのだった。




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