開けた草原にいたはずだったのに、なぜか村の喧騒の中にいた。 踏むのは草の感触ではなく、舗装された堅い感触を足の裏で感じる。命の気配が感じられない何もない鬱蒼とした黒い森ではなく、人が行き交う広場の中心にいる。 見上げる空は、月も星もない夜空だった。あれだけ荒れた乱雲が唸っていたのにも関わらず、その残滓すら残っていない。 「……あ、ああ…ここは……」 呻いて、シエルが小さく唇を振るわせる。そのただならぬ声を感じて、弾かれるようにアルトが彼女の方を向く。 「シエル、どうしたの…!?」 アルトが身体を揺さぶるも、シエルの身体は小さく震えていた。虚ろな眼差しはアルトを映すことなく、村そのものを見つめたままだった。 アルトの胸に、シエルの身体が寄りかかる。 冷たい。 糸が切れた人形のように、力なく……寄り掛かるシエルは呼びかけても反応することなく、顔色は蒼白で、血の色は完全に抜けきっていた。 ただ人の形をした美しい硝子細工みたいに脆く、今、身体を離してしまえばそのまま砕けて消えてしまうのではないか。そんな風にすら思えるほど儚く見えた。 今は、とにかく安静にさせなければ。 シエルの身体を休める場所を探さないと。まずはどこか横にさせられる場所……宿を探すのが先決だった。考えを過ぎったとき、アルトは顔を上げる。 「あの、すいません。どこか、宿の場所を…」 アルトが往来を行き交う人に、声をかけるがその声に応じるものは誰一人としていない。それでも諦めずに、話しかけようとするが誰も足を止めない。 まるでアルトたちの存在があたかも目に映らないかのように。彼らは往来において、誰もがアルトたちをいないものとして扱っている気がした。 「おい…! こっちの話を!」 「ダメだ…そんなことしたら…」 焦れたバーディネが通り縋った村人の襟首を掴もうとするが、それは叶わなかった。 バーディネの指は空を切って、…否、掴もうとした男の身体を擦り抜けてしまった。 アルトも、バーディネも瞳孔を狭めて、硬直させる。 掴みかかろうとしたバーディネを余所に、男はそのまま過ぎ去っていってしまった。信じられないとばかりに、バーディネが自分の掌を確認して、指を動かす。そのまま日常を流し続ける往来はその悶着すらも"なかったもの"として流れ続ける。二人は理解が及ばずにただ立ち尽くすだけだった。 「やめておいた方がいいわね……彼らから生きている者の気配が感じられない」 冷静にユイが告げて、目を細めて往来を……村そのものを見つめる。 「まさか亡霊の村に迷い込んだとでも言うつもりか?」 「よく村を見てみて」 ユイが二人に、村を見渡すように促す。ユイに言われて村の全容を見つめて、言葉を呑んだ。 言葉が思いつかない。 村は形を残してはいなかった。家々は半壊した建物が目立ち、修復されることなくそのまま放置されている。雑草が生い茂ったままで、森にも増して鬱蒼としていた。今、佇んでいる往来の向こうは破壊の後をまざまざと残して、崩れ去っていた。 廃村……破壊された村の後に、いつもと変わらぬ日常を過ごしている村人たちの影。 ここは、……異常な場所だった。死の影を強く残して、こびり付いたままであった。 シエルに異変が襲ったのも村に纏わり付いた死の念が……直接飛び込んできたからであろうか。だが、今はあれこれ考えを巡らせている余裕はない。 腕に抱き締めているシエルが苦しげに呻いている。怨念の只中に放り込まれたようなものであるからか。 「まずは、シエルを休ませる場所を探さないと」 アルトが言い切って、バーディネとユイも同意していた。ここで論じていても、状況は悪くなる一方だったからだ。 「そうだな……ちょっと待ってろ」 バーディネが廃村の中で鷹の目を使って、宿を探し当てる。 アルトがシエルの身体を抱き上げる。 か弱い力がきゅっとアルトの外套の裾を掴んでいた。苦しげに小さく呻くシエルの姿は痛々しくて、見ていられなかった。 バーディネが探し当てた宿屋も、また半壊させられていた。宿屋の店主はカウンターで接客をしていたが案の定、アルトたちを知覚してはおらず、そのまま奥の個室に上がる。 ベッドもぼろぼろで今にも崩れてしまいそうなほどだった。それでも急を要する今は構わなかった。 ゆっくりと、シエルの身体を横にさせる。 シーツは破れて、正直寝心地としては最悪のものであろうが今は我慢をしてもらうしかない。横にさせたが、シエルの顔色に血の色は戻る気配は見られなかった。 部屋も壁に残る傷跡から外気が入り込み、少しでも強い風が入り込めば建物ごと倒壊してしまうのではないかという不安を煽る。半壊した建物にいつまでも長居をするわけにもいかないようだ。 少しでも外気と舞い上がる埃から遮断するために、アルトは羽織っていた外套を脱いでシエルの身体にかけた。付け焼刃程度でしかないが、ないよりはましだろう。 アルトが短く一息を付いたがこの村を抜けるまでは……完全に安心するのは早い。 壁に身を預けていたバーディネが身体を離し、部屋を出ようとする。 「探索してくる。揃ってここにしても仕方がないしな」 振り返らずに、バーディネが告げる。 事態は刻一刻と悪くなっていく……この村にいる限りは真綿で首を絞められるように、緩やかに、だが確実に悪化していく。 「ごめん……」 「なんでお前が謝る」 「最初に着いていくって言ったのは僕だ。シエルがこんな状態になったのも…」 俯き加減に、アルトが後悔を滲ませて唇を噛む。最初に、探索に同行することを提案した自分の浅はかさを今、苦しげに呻くシエルの姿を見て痛感している。 あの時、大人しく残ることを選択していたらここまで状況は悪くならなかったかもしれない。皆を、シエルを危険に晒す事もなかった。 バーディネが短く嘆息する声が聞こえた。呆れられているのか……無理もない。すると大きく音を立てて、木材を蹴る音が近づいてくる。 それにアルトがゆっくりと振り返った瞬間、軽く頭を小突かれる。呆然と呆気に取られて、目をぱちぱちと瞬かせてバーディネをアルトが見やる。 「あのな……それを言い出したらキリがないだろ。それに、最初に哨戒に出ることを言い出したのは俺だ。なんでも自分のせいにして気負うな」 バーディネが腕を組んで、アルトを見つめる。 「後悔は後で充分だ。いいな?」 「うん……ありがとう」 バーディネが微かに口元を緩めたように見えて、アルトも少しだけ微笑んだ。その返答でバーディネの拳がとん、と胸を小突いた。 アルトがゆっくり振り返って、バーディネの姿を見た。 その視線に応えることなくバーディネは部屋を後にして、ドアが閉まる音が反響し、緩やかに村の静寂に溶けていった。 扉が開いた時に吹き抜けていった温い風が、アルトの頬を撫でた。 バーディネぐらい即座に状況を見て動ける冷静さと決断力があれば、という考えが頭を過ぎる。しかし、それは旅慣れた経験から裏打ちされるものだ。 いつか、あれだけ迷いなく状況を見れるようになるだろうか。 今はそれを考えても詮無きものだった。今、目の前で寝込むシエルの姿は紛れもなく現実で、それは今はないことを思い知らされる。 アルトが頭を振る。 バーディネの言う通り、後悔は後でもいい。 でも、ただこうしてシエルの傍に寄り添っているだけしか出来ることはないのだろうか。今も苦しむシエルのために何か出来ることを……何か、今も出来ることはないだろうか。 「それだけ、彼女のことが心配なのね」 凛とした声が、隣から耳に飛び込んでみる。視線を向けると、ユイがシエルを覗き込んで見ていた。凛とした佇まいは変わらずだった。 あまり感情は感じさせなかったが、ユイもまたシエルを心配しているようだった。 商隊で行動を共にしていた時から、どこか他人と距離を置いている印象があった。だから意外ではあった。 「……何?」 アルトの視線に気付いたのか、ユイの視線が向く。 「なんか意外だな、って」 「私だって人の心配だってする」 むくれたように頬を少し膨らませて、ユイが拗ねていた。拗ねていたのも束の間で、すぐにまた凛とした眼差しが戻る。 「早く良くなってくれるといいんだけど……」 ユイが横になるシエルを見やった。伏し目がちに見る彼女の表情は、苛立ちというものを感じさせずに心から案じているようだった。 「そう、だね…」 頷いてから、アルトが被せた外套から覗くシエルの細い指先を握る。握った手は、冷たい指先だった。静かに、アルトの視線が沈んでいく。 ただ待つだけ。それだけなのかとアルトが思わず、握った指に力が篭る。 「彼はきっと、そんなに弱い人ではないよ」 「バーディネは強いよ」 諭すように、ユイが言う。 旅慣れて、幾多の死線を越えてきたバーディネはこの状況においても頼りになる。それでもこの暗闇の中で、彼は一人きりになってしまっている。 アリアハンからずっと旅に同行している仲間だ。困難な状況でも、彼の助けで命を拾うことは何度もあった。 その強さ故に、彼自らがアルトたちを助けを求めたことはないようにも思える。 肩を並べて戦うのではなくて、ただ傍らで戦うだけの人。 何故バーディネが独り、旅をしていたのか。それを語ったことはない。 たまに見せる眼差しはどこか遠く、その瞳はどこか……孤独だった。苦しみも、悲しみも、喜びも表に出さずに、ただ独り戦う。 そんな彼の姿は、まるで―――。 ぴくり、と。 シエルの指先が動いた気がした。弾かれたように、アルトが顔を上げる。 「あ…アルト君……?」 ぼんやりとした、寝ぼけ眼でゆっくりと…シエルの目蓋が開かれる。意識を取り戻したシエルの姿に、心から安堵を覚えて、アルトの唇が緩んで微笑む。 「大丈夫? 身体は…」 「わたしは……どうしてここに…」 シエルはまだどうして倒れたのか、理解が及んでいないようだった。シエルが身体を起こそうとするが、力が入らないのか身体を起こすことは出来なかった。 「あれ……なんで」 「まだ、無理に身体を動かさないほうがいいよ。もう少ししたらよくなるよきっと!」 「そう、……ですね」 弱くシエルが微笑んだ。まだ身体の調子は戻っていないようではあったが、少しずつではあるが体力が戻りつつあるようだ。 「バー…ディネさんは……」 シエルが辺りを見渡して、同行した彼の姿がないのに気が付いてアルトに尋ねる。 「バーディネは辺りを見てくるって…」 「ダメ、です……何かが……大きな力が頭の中に飛び込んできて、それで……」 「大きな、力を持つ何か…」 不穏な響きを持った言葉だった。もし、それが今も村に潜んでいるのだとしたら…。不穏な響きを持つ言葉に、アルトが立ち上がろうとするがユイの手が軽く肩を叩いて静止する。 「アルティスは、今は彼の言う通り…彼女の傍にいて。二人で行く必要はないわ」 ユイがそれだけを言い残して、部屋を出て行った。バーディネのことは彼女に任せる…それしかなかった。 「ごめん…なさい……」 小声で、シエルが謝っていた。それに不思議に思ったアルトが小首を傾げる。 「わたしが…足手纏いになってます……だから」 「みんな、それぞれで出来ることをやってるだけだよ。…今はそれを信じよう」 アルトが告げて、片手を握り締める。バーディネも、ユイも決して弱くなんてない。今は、彼らの強さを信じるしかない。 「普段からシエルにはみんな助けられてる。卑下しなくたっていいんだよ」 「そうでしょうか…?」 そうだよ、とアルトが強く頷く。呪文の力だけでなく、彼女の人となりは皆を助けている。 「………あ」 何かに気が付いて、シエルが小さな声を漏らす。ほんのりと頬を紅く染めて、まじまじとアルトを見やる。 「ご、ごめん…」 あ、とアルトも気が付いてぱっと指を離す。あまりの気恥ずかしさに顔中が熱く、火が出てしまいそうだ。 「ずっと…手を繋いでてくれたんですね。これだって…」 柔らかに、シエルが微笑む。ぎゅっと外套を抱き締めてみせた。包み込むように弱い力で、そっと。 こんな時だというのに、とても穏やかな時間。ゆるゆると流れていくこの時は、まるで今という時と隔離されているみたいだ。 「僕じゃ頼りにならないのかもしれないけど……僕が守る」 アルトがそう告げて、真っ直ぐにシエルの紅の瞳を見つめて照れ隠しに笑った。 「ありがとう、ございます。アルト君が守ってくれるんなら、ここは誰よりも安心ですねっ」 まじまじと、はにかみがちにシエルもまた微笑みで返した。 守るべき人が傍にいる……誰かを守ることもまた、今の自分に出来ることだ。誓ったものを今は、必ず守りきりたいとアルトが願う。 ―――そう、願っていたのに。
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