弾かれるように、牢獄の外へとバーディネが飛び出す。 空が裂けていた。星すら呑みこむ深遠が続いていたはずの空が罅割れていた。罅割れた傷の向こうには本来の夜空が、荒れる暗雲が渦巻いているのがはっきりとわかる。 息を呑んで、バーディネが空の傷を直視する。何かが…起きてはならない何かが、今起こっている。それだけは間違いがないようだ。また闇の中へと足を踏み込んで、乱雑な音が牢屋の中に反響し、顔を上げた男とバーディネの視線が合う。 「空が欠けていた。何なんだ。あれは?」 『空……まさか!?』 男が瞳孔を狭めて、バーディネを見やる。 『結界が破られたか。魔の手がもうそこまで来ているということか。時間はないようだ』 歯軋りをして、男が唇を噛む。男の魂は死する瞬間に隠れたこの牢獄に囚われ、自由に身動きなど出来るはずもない。魔族が進入をしてきたのなら、一刻の猶予は確かに残されていない。 「侵入者の狙いは……やっぱりそれか」 『ああ、間違いないだろう』 男の指に納まった翠の宝玉は静かに光を湛えている。宝珠を狙う何者かが結界を破って、テドンへと踏み込んできた。狙う存在は恐らくは魔族しか思い当たる節はない。 男が手を差し出して、翠の宝珠をバーディネに向ける。 『君が持っていってくれ。頼む…!』 「あんたは……それでいいのか?」 バーディネが尋ね、男が一瞬だけ目蓋を閉じる。ゆっくりと開いたその眼差しには確かな、意思の光が宿っていた。覚悟の念が篭った眼差しを同じバーディネが受け止める。 『ああ。いつか……それを受け取るべく者に君が託してくれ。過去に呑み込まれてしまった私の代わりに』 重みを持った言葉が耳朶を打って、差し出された宝玉の光はとても眩しかった。この翠の光は多くの想いと命を呑みこんだ輝きであった。 バーディネが視線を上げると翠の微かな光に照らされて、壁に刻まれたものが浮かび上がってくる。血で刻まれた無念が、はっきりと目で見えてしまう。 ―――生きているうちに、私が持っている宝珠を誰かに渡したかったのに……。 突き刺すような無念が、残されていた。 きっとこの魔法使いは宝珠の力で村に残ったのではなくて、自身の抱く強い意志で現世に留まり続けていたのだろう。 いつ来るかもわからない誰かを待って。それに他者を巻き込んでしまったという強い後悔と無念を抱きながら、来るかもわからない宝珠を託すべき誰かを待ち続けた。 それを託されるべき資格はバーディネ自身にあるのかはわからない。だが、この意思に応えたい。 「―――わかった」 バーディネが頷いて、深緑の宝玉に指を重ねる。 「約束する。必ず、……勇者に渡す」 はっきりとバーディネが告げる。必ず、この翠の宝珠をアルトに、頼りなくも世界と向き合おうとする少年に託す。僅かな重みしかないはずの宝珠が、バーディネの指先にはとても重いものとして感じられた。 「……ありがとう」 男が目を細めて、微笑んだ。 その笑みはどこか安らかで、重みから解放されたようでもあった。 邪悪なる者の足取りはもうそこまで来ていた。 別れを惜しむ時間もなく、バーディネは牢獄を後にする。ほんの少し時間しか経過していないはずだったが、空の侵食は進んでいた。皹が大きくなって、そこから覗く雷雲の唸りは魔王の咆哮のようにも思えた。 見渡せば、村の異変は明らかに、確実に起きていた。 賑わっていたはずの村人たちの姿がない。過去の残滓は空の異変と共に本来の姿へと戻されたかに、寂寞としていた。 懐に仕舞いこんだ翠の宝珠が妙に重たく感じられる。駆ける足をもこの村へと括り付けられてしまいそうにも感じてしまう。 その重みに負けじと、バーディネの足は前へ、前へと突き動かされる。 衝動に突き動かされたまま、今は仲間との合流のことだけを考える。 アルトたちは無事だろうか、と考えて彼らはそこまで弱くはない。心配をせずとも、よほどのことがない限りは自分の身を守れるはずだ。 耳を劈く。豪火球がバーディネの直前で爆ぜ、火柱と共に粉塵を巻き上げて大地を抉る。後ろへと跳躍し、難を逃れるが続け様に放たれる豪火球を掻い潜って、バーディネが駆ける。 粉塵の中を突っ切って、術者へと短剣を振り下ろす。固い感触だった。肉を裂いたのではなく、堅い何かに遮られ、防がれた。 粉塵が晴れ、術者が姿を現す。醜くぶよぶよに太った体躯の怪人。本来腹がある部分に顔となっており、白目で濁った目がより不気味さを際立たせる。 手に握られた樫の杖で、バーディネの一閃を弾く。バーディネも後ろに跳び退って距離を取る。 「ほっほ、ネクロゴンドで異変があったと聞いてみれば見慣れぬ小僧がおるわ。こんな廃村で何をしておる」 しわがれた低い声が反響し、魔族が口元を歪める。 「ただの廃村に魔族がいることこそ珍しいがな。こんな廃村で何してやがる」 「ふぁっふぁっふぁっ、口が減らぬ小僧じゃな。それはこちらの勝手じゃ」 くつくつと侮蔑した、しわがれた笑い。濁った眼差しからは……バーディネを見下した視線が突き刺さる。 所詮は人と侮られているのか。 濁った瘴気の闇を力の糧とする超越存在からすれば、人など他愛もない弱者に過ぎない。だが……それが付け入る隙でもある。 思い、バーディネが口元を歪める。 慢心は死を招き寄せる。窮鼠猫を噛むという言葉もある。弱者とて弱者なりの意地もある。せいぜい足掻いてそれを見せてやろうじゃないか。 短剣を握り直して、魔族に向き直る。笑みを消して、バーディネが敵を見据える。 「何じゃ一戦交えるつもりかの。ほっほ、身の程知らずも大概にせんと火傷ではすまぬぞえ……?」 敵から見ればただの取るに足らない小僧に過ぎず、戯言としか見られていないようだ。だが、バーディネは気にも留めずに、真っ直ぐに、真っ直ぐに駆け出す。 「退屈凌ぎにはなりそうじゃな。せいぜいこの幻術士を楽しませることじゃな」 幻術士と名乗った魔族の振り上げた指先から小さな火の玉が生まれ、刹那に豪火球へと燃え上がる。放たれ、地面を吹き飛ばし、地面を抉り、粉塵と共に火柱を巻き上げる。 粉塵の中を、バーディネを掻い潜っていく。この命のやり取りすらも、敵から見れば児戯。 ただ人という形をした玩具で弄んでいるだけに過ぎない。渇いた笑いが爆風と共に耳に届いてくる。幾重にも飛んでくる火球を潜り抜けて、バーディネが距離を詰める。 短剣を振るう。杖で弾かれる。硬質な音の残響が消えぬ間にまた攻めて移る。幻術士が瞬時に杖を持ち替えて、弾き返す。 すかさず幻術士が杖で穿ってくる。それをバーディネが腰を低くして避け、瞬時に反撃で穿ち返す。 剣戟。短剣と杖で行われる近接の戦い。 見る限り、敵は呪文使い……懐に飛び込めば勝機はまだ見えてくる。 人と魔族の種族差があろうとも、呪文を詠唱する速度よりも、剣を振るう一瞬には届かない。懐に飛び込んで、呪文を詠唱する隙など与えるものか。 見ろ。 その目で焼き付けるように。捉えろ、捉え続けろ。 敵の一挙一動を。その眼で、一撃を与える瞬間を見い出せ。死を遠ざけたければ、動き続けろ。攻め手を休めるな。手を休めずに、前へ、前へと。 幻術士は表情を変えずに、くつくつと笑いを漏らしている。 それでもただ、剣を振るう速度を休めずに振るう。振るい続ける。ただがむしゃらに。その瞬間にも杖が穿たれ、すんでのところを掠る。 だが、変化はあった。幻術士が目を細め、白目に怒気を宿す。背筋を射抜くものが全身を貫く。 「小僧……キサマ、何を隠しておる」 瞬時に生じた豪火球を、幻術士が足元に穿つ。自身諸共粉塵と爆炎が巻き上がって、バーディネの身体が宙を舞ったと知覚した瞬間には、背筋を鈍痛が走る。 身体を起こして、敵を見る。自身の放った火球を受けたにも拘わらず、幻術士は微動だにもしていない。 「キサマ、懐に何を隠し持っておる」 「……さあてな。何の話だ」 「気付かずとも思うておるのか。胸を攻撃する瞬間微かに庇う動きになっておる」 バーディネは表情に出さず、内心で舌打ちをする。意識はしていなかったが、無意識のうちに懐に託されたものを庇おうとしてしまっているようだ。しかも、それを見抜かれている。 白く濁った眼差しが、バーディネを見据える。 「キサマ自身に話してもらうとするかのう。少々骨であるがな」 にぃ、っと幻術士の口元が悪辣に歪む。武器として振り回していた自身の体躯と同じ大きさの杖を、見えぬ刃で穿つように、バーディネに勢いよく向ける。 杖の先から一瞬だけ強い光が瞬く。瞬いた光はバーディネの視界を歪めて、全てをぐにゃぐにゃに溶かしてゆく。光が自身の目から入り込んで、光が血に混じって全身を駆け巡って身体を奪おうとしているようだ。 蕩けきった視界は足の感覚を奪って、言いようのない浮遊感が全身を包んでいく。 視界から色が失われて、黒が包みこむようにしてバーディネを包んだ。浮遊感が全身を襲って、黒の底へと堕ちていく―――。 温く、生々しい感覚。 ゆるゆるとしたものが身体に纏わりついて離れない。不愉快な感覚―――指先に、足に、胸に蛆が這いずるように何かが蠢く。 蛆は身体の中に入り込んで、溶けていく。 黒に包まれていた視界が、徐々に開けていった。 開けた視界の先に待っていたのは、忘れようのない白い町並み。空が毒々しいほどに青々しい。それをただ今の自分は呆然と見上げている。白と青が混ざり合って、斜陽を町に残して、渇いた夏の日差しがバーディネを照らす。 行き交う人。騒々しい喧騒。ざわめく街。 その中に混じって、歩く親子。夏の風に銀の髪を揺らして、精悍な顔立ちの戦士の手を引いて歩く少年。それにぎこちなくも優しい目で見つめる戦士。それに寄り添う細い女性の肩。やんちゃに雑踏を駆け巡る子供と、それを温かい眼差しで見守る男と女の二つの影。どこでもある親子の光景。 大きな手で頭を撫でられ、少年がくすぐったそうに目を細める。人を守れる大きな手。戦士は人を守るために生き、誰かのために戦うことを自身の誇りだった。それが少年にとっては誇りであり、憧憬した姿だった。 斜陽の影は濃く、濁っていく。駆け回っていた少年の幸せを包みこんで、奈落へと堕ちていく。 町の広場を母と寄り添って歩く。親子が街を歩けば、人は道を譲る。だが、そこにさっきまでの敬意の念はなく、憎悪と異常なモノを見つめる毒々しい悪意が注がれる。 触れることすら、接することすらおぞましい。どこかから少年に石がぶつけられる。 誰もそれを咎めることなく、集団に反する存在こそが悪だと――集団が断じていた。バーディネが仕返そうとしたが、母に無言で咎められ、少年は唇を噛んだ。 「―――やめろ」 人々は容易く掌を返した。それまで自身らを守っていた象徴を平然と切り捨て、『無かった』ことにした。 希望そのものすら自分らを守らなかったとわかると容易く流される。裏切る。希望、英雄、それは全て大多数が決めることであり、大多数がいらないと判断したのなら……それは不要なもの。無かったことにしていいもの。あの人が守ろうとしたものはこんなものだった。 少年がその眼で、自身をせせら笑う人混みを見る。お前らのためになんて戦うものか、と侮蔑と怒りを込めてただ人混みを睨んでいた。目に映る世界はとても……歪んでいた。 「彼らを許してあげて。人はとても弱い生き物だから、縋れる何かがなければ生きていけないの。それを責めてはいけないわ」 そう、女が優しく微笑んで、少年を抱き締めた。温かく、包み込むような温もり……包まれて、少年は涙を流した。 「ダカラネ。あなたはそれをオシエテ?」 女の笑顔は仮面めいたものになっていた。優しい温もりは生々しく毒々しいものとして縛り、少年はいつしかバーディネになっていた。 身体の自由は失われている。指先すらも母の殻を被ったそれのもの。思惟は掻き乱され、蕩けていくのみ。バーディネが苦悶に呻いて、仮面は優しく語り掛ける。 それが違うものだと、理解していても乱されきった思惟はそれを受け入れてはくれなかった。 「いいじゃない。ヒトがどうなったって。キミの過去をマモってはくれなかったんだろ。どうなったって自業ジトクだよ」 くぐもった仮面の声はどこまでも優しかった。 そうだ。 その通りだ。自身は安全なとこで守られているだけの癖して、肝心な時は誰も守ろうともしない。助けてもくれない。ただ見ているだけで……傍観を気取っているだけの癖に! 手招くように。誘うように。バーディネの指は動いていた。 自身の懐を探って、それを掴んでしまう。 ぼんやり、ぼんやりとした思考が消えていく。 もうどうなったって構わない。どうなろうとも知ったことか。決壊した心が進んで動き始める。 バーディネが自身の思惟を手放そうとした瞬間に光が瞬く。翠の……淡い光。導くように、バーディネの意識を回帰させる。 ―――世界が美しいといった少年がいる。 彼はまだ頼りなくて、ただただ優しいだけの少年。それでも心一つで世界は変わると笑った。 ああ、この世界は醜い。 醜いものたちで溢れ返っている。己の欲のために他者を利用し、潰すものたちばかりだ。そんな人間は多く見てきた。そんな人間ばかりだった。 だけど……その中でただ我を貫いているものたちだっている。あの大きな人影のように、誰かを守るために生きることを良しとする存在もまたいる。 託されたものがある。 この光を、託されたものの思いを……あいつに、アルティスに届けなければ。 届けると約束した。 短い時間でしかなかったかもしれない。だが、死にすら抗って、託すべきものを待ち続けた男と交わした約束を必ず守らなければならない―――。 手に掴んでいたはずの光は大きく、大きく瞬いていく。翠の光はバーディネを現実へと引き戻して、意識を呼び戻す。 全身を這いずっていた生々しい感覚を振り解いて、元の…テドンの村へと回帰する。バーディネを包んだ光は強く、強く煌き、大きくなっていく……。 「過去は過去。俺は今、まやかし如きに流されるわけにはいかねえッ…!」 バーディネが遠く消えていく幻想を見据えて、はっきりと告げた。 幻術を消し飛ばして、バーディネを現実へと呼び戻す。翠の閃光がテドンの闇を切り裂いて燦然と輝く。 「ぬかったわァ! 小僧! それを遣せェ―――ッ!!!」 それが何なのか理解し、焦燥に駆られた魔族がバーディネから翠の宝珠を奪わんと駆け出す。 けたたましく幻術士が叫んで、光に手を伸ばそうとする。その穢れた手が翠の宝珠に触れることは決してなかった。 瞬いた光に拒まれ、矮小な身体は吹き飛ばされて、塵へと還っていく。魔族は聖なる光で、断末魔の叫びを上げて光に咀嚼されていった。 乱れた息を整えて、呆然と消えていった一つの影を見つめていた。 「あんたが……守ってくれたのか…」 翠の宝珠をバーディネが握り締めて、託してくれた人の影に思いを馳せる。 熱い。 焼けるぐらいの熱さが身体を駆け巡る。 堅く握り締めた翠の宝珠は役目を終えたように、静かに光が小さくなっていった。 その思いに応えるためには、今は駆け抜けるのみだった。
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