「う…―――ぁ」
 小さく呻いて、頬を生温い風が撫でた。猛る風は空へと舞い上がり、唸る空に呑み込まれて消えた。視界いっぱいに広がる空は暗雲が支配していた。
 シエルが片手で頭を抑えて、身体を起こす。周りを見渡して、次第に意識がはっきりしてくる。

「ここは……どこ……」
 たまたま迷い込んだ廃村で休んでいたはずだ。今、シエルを取り巻くのは一面の草の海。何もない草原に横たわっていた。
 朽ちていても室内にいたはず。それが突然外に放り出されていて、事情を飲み込めずにいた。

「アルト君たちはどこ……?」
 付き添って看病をしていた少年の姿を辺りを見渡して探すが、どこにもいなかった。草原の彼方に目を凝らしてみても、やっぱり影を探すことは出来なかった。
 暴風に煽られて靡く紺の外套をシエルが抱く。
 持ち主のいない外套はどこかに舞い上がって消えてしまいそうなそんな不安を感じさせたからだ。不安を少しでも打ち消したかった。意味は無いかもしれないけど、そうしたかった。

 息が苦しくなっていく。
 空気が張り詰めている。
 不安が悪寒になる。粟立った肌を隠して、外套を抱いたままシエルが立ち上がって辺りを見渡す。本来の空の色を映した髪が風に弄ばれる。感じた危険に次第に表情が強張っていく。

「――やっと、目を覚ましたようだね」
 草原の海に、一つの影が揺らめく。影のように揺らめいたのは深緑の法衣。その中から覗く銀色の仮面が少女の姿を見つめていた。
 空が堕ちてきそうだ。押し潰されそうな、威圧感を当然のように放つ超然的な影と対峙している。
 そこにいたのは、あの日アリアハンを襲撃し、アゼルスを殺した魔族がシエルを見ていた。殺意が篭っていないはずなのに、冷たいナイフで背筋をなぞられる鋭利な感覚がシエルを襲う。

「…やはり、面影がある」
 思案気に魔族はシエルを見る。シエルを透過して誰かの面影を見つめる姿に、シエルが後退りをして微かな音を立ててしまう。

「あ、あの……」
 喉に言葉が詰まる。唇が震える。肌が粟立つ。足が震えて、地面が酷く不安定なものに感じられる。逃げろと囁きかける衝動を呑み込んで、魔族の前に立つ。
 本当の家族を知り得るかもしれない手掛かり。
 その機会が今、自分に訪れている。やはり、彼は何かを知っている。何かの面影を、少女に見ている。それは間違いない。
 あの日から、心の奥底に引っかかっていたものの形を知る存在が今、目の前にいる。足に力を込めて、シエルは目の前の超条存在を見据えた。

「あなたはわたしに誰の姿を重ねているんです……?」
 シエルの問い掛けに弾かれたように、魔族の足が動き始める。荒い足音が雑に草を踏みつけ、圧倒的な暴力の顕現が少女に歩み寄ろうとしている。
 それを息を呑んで、ただシエルが睨み据える。もう、眼前には魔族の姿がそこにある。気圧されそうになるが、それを堪えてシエルが懸命に立ってみせた。

「君の名は……君は何と言う名なんだ」
 どこか優しい声色が耳朶を打つ。仮面越しの視線に、たじろぐことなくシエルが受け止める。
「シエル……シエル・アシュフォードと言います」
「シエル……? 君はシエルと言う名なのか。そうか、そういうことか。似ているのも無理はない……!!」
 得心が行ったように、魔族が口元を穏やかに歪めた。

「君が私の母の面影がある。髪の色、顔立ち…何もかもが生き写しだ。君が私の……死んだ妹と同じ名前であるのも、偶然などではない――」
 シエルの唇が乾いていく。
 母の面影を持つと言った。死んだ妹と同じ名前であると言った。
 それが耳に届いた時には何かに皹が入った。それは少しずつ、だけど確実に不協和音としてシエルの中を濁らせていく。
 魔族。世界を脅かす闇の眷属。世界の歪み。
 しかし、それが自分に繋がるものであるのなら。今の自分に脈々と流れる血筋に連なっているのだとしたら。
 熱い。血が熱い。自分に流れる血を全て捨て去ってしまいたいぐらいに熱さが消えない。血が熱くなっていくのと同時に身体の全ての力が抜け落ちて、立つ力を削いでいく。

 ふと、アルトの顔が過ぎって、彼の笑顔が灰色にくすんでいく気がした。
 魔の者と連なっているのなら、彼の隣に立つべきではない。そうだ。そうに決まっている。
 このまま、消え去ってしまえばいいんだ。そうだ。そうしなければ。
 だって、自分に流れる血が魔族のと同じだなんて、あってはならない穢れ。穢れは消え去れなければ。

 なんで、知ってしまったんだろう。
 なんで、知ろうとしてしまったのだろう。
 ただ知らずに敵として相対したままでいれば苦痛も何もなかったかもしれないのに。
 知ってしまった苦痛は全身を駆け巡って、瞬時に心を砕いた。ただただ気だるく、思考すらも億劫になっていく。もうどうなったって……。

「私と共に行こう。あの方もきっとお喜びになる――」
 家族が歓喜に声を震わせて、手を差し伸べる。
 この手に捕まれば、本当の家族がいる場所に行ける。家族と一緒にいられる。聖誕祭も、誕生日も家族と一緒に祝える人を妬まなくていいんだ。

「わたしの……いるべきばしょ?」
 唇が震えて、自然に言葉が出た。
「わたしが……いてもいいばしょ?」
 それは彼と一緒に行ったその先に待っている。
 彼らが世界でどんな存在であろうとも、世界にたった一つだけの絆を持てる人たちなのだ。ずっと探していた温もりはこの掌を握り締めた先に待っている。……待っているのだ。

 その向こうに陽だまりが、小さくて掛け替えのない温もりがある。
 シエルを決して孤独にさせないものが、包んでくれる。
 差し伸べられた手、その手を―――。

 掴むことが、出来なかった。
 目の前にあった掌を掴み取ることは、シエルには出来なかった。
 目蓋から熱く、狂おしいものが溢れ出た。止め処なく、堰を切って流れ始めた。
 望んでいたのに。渇望していたのに。それに触れることは出来ずにいた。

 今まで、自分を支えていてくれた人たち。
 この掌を掴むことは今までシエルに優しく、家族とは違う温もりを与えてくれた人たちに刃を向けること。家族の代わりに切り捨てることになる絆を断ち切ってまで、その場所には……いけなかった。
 零れ落ちていくのは、今まで探していた家族への気持ちだろうか。抜け落ちていくような感覚に苛まれて、身体が震える。寒さも、何も感じないはずなのに、ただただ身体が震える。
 呆然と、目の前に差し向けられた掌を見つめるだけが、シエルの精一杯であった。

「……何故だ」
 魔族が唇を噛んだ。仮面越しの視線に、怒気が篭る。
 感情を現しただけで大気が悲鳴を上げている。
 空が脆く、暗雲が崩れ落ちてシエルを呑み込んで、押し潰してしまいそうだと……圧倒的な怒りが、世界そのものを焼き尽すと錯覚する。
「無理もない。唐突に突きつけられれば動揺しても無理からぬこと」
「しかし……」
 理知的な声と、感情を現した声が混ざり合う。気圧され、身体の力を竦ませてしまったシエルはただ呑まれてしまっていた。その存在に怒りに、全ての力を封じられたかのように。

 不意に、大気が薙がれた。
 シエルの目の前に割って入った銀の一閃。
 次の瞬間にはシエルの身体から大地の感覚が消える。抱き寄せられ、ゆっくりと目蓋を開くとそこには強風に黒髪を煽られた、まだあどけなさが残る顔立ちの少年……アルトがいた。
 彼の顔を見たら、何故かまた涙が溢れてきた。理由もないのに、涙が止まらなかった。

「大丈夫…?」
「あ、―――るとくん」
 焦点が定まらない眼差しで、シエルが呆然と、アルトを見つめる。
 彼を見ているだけで、唇が乾く。上手く言葉が形にならない。今まではこんなことなかったはずなのに。

 アルトが距離を取って、シエルをゆっくりと降ろす。
「僕は、大丈夫だからそこで待ってて」
 シエルを勇気付けるためか、アルトが笑顔を見せた。その笑顔はいつもの陽だまりのような笑顔ではなくて、どこかで感情を押し殺した……ぎこちないものだった。
 シエルが魔族へと向き直るアルトを引きとめるように指を伸ばすが、彼は指からすり抜けていってしまった。
 目の前に立つ魔族は仇。兄の命を奪った敵。仇と相対しているのだから。その怒りもまた、彼から感じられた。普段は穏やかなアルトから感じる……怒り。

「君か……」
 背中越しに、魔族が語る。きつく……筋肉が軋んだ音が反響し、振り返る仮面の視線には敵意が宿っていた。
 背中越しに、見るアルトの背中にシエルが逃げて、と言いたかった。その言葉は喉に詰まったまま、ただアルトを見つめることだけだった。

「君が……惑わしたのか。シエルのことを」
「シエルを傷つけたのは、あなたですか?」
 アルトが尋ねるものの、魔族から答えはなかった。
「つくづく……君は、私の邪魔をしてくれるね。大した力もない癖に」
 怒りに靡かれて、深緑の法衣が風に舞う。空の雷雲が敵の怒りに叫んでいるようだった。

 きつく、アルトが敵を見据えて駆け出す。大地を蹴る。
 かつて―――彼に戦いを挑んだ勇者アゼルスと重なる一筋の剣戟。
 銀の光が、夜闇の中を煌き、大気を裂いて…そして、

 ―――止まっていた。
 切っ先が法衣を裂くことなく、空中で止まっていた。
 右薙ぎに振り抜いた剣閃は、敵を切り裂くことなく、ただ立ち尽くす敵が纏う漆黒の闇に押し留められていた。渾身の力をこめた一撃を……易々と、否、微動だにさせることも出来なかった。

「その程度で―――勇者を名乗るとは……」
 敵から出たのは、落胆であった。
 失望にも似た憎悪が漏れ出してくる。その憎悪は真っ直ぐに、アルトの姿を捉える。
「君の兄は……勇者アゼルスはもっと手強かったぞッ! 弱者が! 勇気ある者の名を語り我らの障害となろうなどと片腹痛いッ!!」
 言葉の代わりに、至近距離で火柱が穿たれる。腹部で爆ぜた爆発がアルトの身体を吹っ飛ばす。

 地面に叩きつけられて、アルトが呻く。
「ま……だ―――!!」
 裂帛の気合を持って、アルトが立ち上がり、大地を蹴る。再び大気を切り裂く銀の閃光は敵を穿つことなく、放たれた火球に打ち据えられる。

 再び立とうとした瞬間には氷の刃が放たれて、アルトの四肢を突き刺して、大地に縫い付けてしまう。磨き抜かれた鏡のような氷が鮮血で濁っていく。
 耽美な仮面の中から覗く眼光は、冷ややかにアルトの姿を見下ろしていた。指先から数発の火球を解き放ち、相乗された紅は天すら焦がす。炎は爆ぜて、一際大きい轟音と共に派手に粉塵を巻き上げる。
 重なる。
 あの日、最期に見た背中と重なる。シエルが喉を震わせて、言葉に出そうとした。止めなければ。失ってしまう。アルトも彼女の前からいなくなってしまう。それは、きっと……。

 魔族はアルトを冷徹に見やる。
 一撃も与えることが出来ずにただ、少年は打ちのめされた。傷だらけだった。
 まるでシエルに見せ付けるように。アルトに攻撃を加えることで、シエルの心の音を折ろうとするようでもあった。

 アルトも、まだ諦めてなどいなかった。
 立ち上がろうとしていた。力などないのに、立ち上がろうとしては崩れ、それでもまた足掻いていた。それを幾度となく繰り返し、地面に膝を突いたまま口から鮮血が滴り落ちる。
 指先は天へと掲げられるが、何も起こることはなかった。やがて、アルトの指は地面へと吸い寄せられる。
 シエルはアルトの傍に寄ろうとするが、地面に身体を縫い付けられたかに、身体が動かない。無様に、足を縺れさせて、地面を転がる。舌に土の苦さが迸る。

 無力だった。
 ただ無力だ。
 目の前で、傷ついた少年に駆け寄れずに…ただ、こうして自身の無力さにただ打ちひしがれるだけだ。  悔しい。悔しさと惨めさが、シエルの身体を満たして、全ての力を削いでいく……。

 エビルマージの背後から剣戟が舞われる。それにもやはり微動だにもしなかった。続けて、掌打が打ち込まれるが、やはり纏った闇を突き破ることは出来なかった。
 うっとおしく羽虫を振り払うように振り向きながら火球を放ち、爆炎が巻き上がる。
 軽やかに舞い上がった一つの影はアルトの前に立つ。

 バーディネが鋭い眼差しで、敵を見やる。
「しっかりしろ…! こんなとこで倒れるにはお前はまだ早いだろ!」
 反応のないアルトに肩を貸して、バーディネが舌打ちをする。シエルもまた静かに微笑んだユイに抱き寄せられていた。

「逃がすと思うかい?」
「逃げるさ」
 バーディネが短く言い切る。それにエビルマージが口元を歪める。

「どうやら、またしても我が一手は君らに防がれたらしいね。全く、忌々しい」
 テドンを包んでいた夜を破壊したのは、エビルマージらしい。揺らぎが生じたのは、全て彼の介入によるものだとわかる。ならば、何故そうする必要があるのか。
「君が……持っているようだね。宝珠を。だったら、今から奪うのも容易い」
「あれは貴様らが軽々しく手にしていい代物じゃないんでね――!」
 軽くバーディネが口元を歪める。だが、バーディネに余裕は感じられなかった。

「シエル、光の呪文を……ニフラムを唱えろ!」
「あ―――え…?」
 バーディネの怒号が耳に届く。思考する力を削がれていたシエルに唐突に命じられて、戸惑う。
「いいから早くしろ!!」
「……は、はい」
 指をあげようとするが、力が篭らない身体を忌々しく思う。歯痒い。自由の利かない身体が。
「大丈夫。私が支える」
 囁きかけるように、ユイが言う。差し出そうとしたシエルの指をしっかりと、ユイの手が掴む。

「て、天への扉よ、迷えし魂を、安息の地へと誘って―――ニフラム!」
 躊躇いがち呪文が告げられる。シエルの指先から淡い光が溢れ出して、急速に大きく瞬いた。
 光の中で、彼の眼差しが憎しみに歪んだのを見て、背筋を射抜いたものは刃に似ていた。向けてきたのは戸惑いと、手を掴むはずだった少女への慟哭だった。

 怯んだ一瞬に駆け出して、逃げ出していた。
 この胸を苛むモノが、ずっと胸に反響したまま足はユイの手に引っ張られたまま意思を無視して足は勝手に動き出していた。エビルマージは追撃することなく、シエルもまた振り向くことはなかった。
 遠く遠く……遠くなる廃村を背に、雲の切れ間から淡い光が覗く。
 朝が来ていた。
 それぞれの思いを照らして―――明日が顔を見せていた。




BACK  /  TOP  /  NEXT