目を開けば、どこまでも吹き抜ける……青い空が広がっていた。 澄み渡っている。一点の穢れなき、蒼が視界いっぱいに広がる。 その眼が下に堕ちていく。 眼前に広がったのはアリアハンの街中。純白の通路が蒼と白とに境界線を隔てる。その狭間に、立っていた。 ぼんやりと白濁する意識。現実感を喪失した思惟が一つそこに存在し、意識だけがぽつんと在った。その思惟は小柄な二人の少年の影を辿っている。 黒髪の少年と、金髪の少年。華奢な体躯が通路を駆けていくのを自然と辿っていた。懐かしさが胸に過ぎり、小さな望郷を抱いたまま、そこに立ち尽くす。 そんな二人の少年の影が遠ざかっていく。なにやら雑談を交わしながら遠くへ、純白の彼方へと消えていく。立ち尽くし、それを見送る思惟の横を、小さな影が一つ横切っていく。 青い、空色の髪をした小さな女の子。遠い過去の残響が過ぎ去って、二人の少年の影を追って白を駆けていく。小さな影は白に溶けて、消えていく……。 消えていった懐かしい残響を追いかけようとして、立ち尽くす身体を動かそうとする。 動かそうとする……が、身体は動くことはなかった。 希薄になった思惟はただ沈んでいくだけ。白の境界線は瓦解して、何もかもを呑み込んで行く。思い出はただ遠ざかり、振り向いて省みようとはしてくれなかった。 重くなっていく。 白が濃くなっていく。濁っていく。 足が白に絡み取られて、蔦のように絡み付いていく。感覚が消失した地面は、海で。もがけばもがくほど白に飲み込まれていく。 目蓋を焼いた白は白であって、黒であった。色すら欠けた視界は、ただ黒の中をたゆたうだけだった。 欠けていく。 今まであったモノが、欠けていく。 黒の底から、純白の……生気のない手が手を、足を、身体を掴んでいく。纏わり付いて、闇へと、黒の中へと引きずり込もうとしていく。 もがいて、それを引き剥がそうとすればするほどに増えていき……より深層へと堕ちていく。全身に張り付く暗黒の泥が責め苦となって、圧し掛かる。風は怨嗟。心を蝕むモノが吹き抜けていった。 漆黒の海に一人。翠の法衣を被った青年の姿が浮かび上がる。 目に浮かぶのは、張り付いたようなアルカイク・スマイル。彫像のような違和感のある笑顔が手招きしている。歪んだ微笑みが今はただ、優しく、穏やかなものと感じられて。 ―――一緒に行こう。あの方の元へ……。 家族が、探していた人たちが待っている。 あの手招きの向こうで、出迎えようと待っているんだ。 がらんどうになった心はもう考えるのをやめ、差し伸べられた手を掴もうとして、 ぼんやりと、意識が醒めていく。 いつの間にかに、シエルは眠ってしまっていたようだった。いつ意識が途切れたのか、それすら定かではない。ぼんやりと晴れない心を抱えたままシエルの身体はそこにあった。 「いつの間に……寝ちゃってたんだ」 シエルが独りごちて、まだ自分の体温が微かに残る毛布をぎゅっと抱き締める。 混濁した意識は晴れないまま、少し前の記憶を呼び起こす。 差し伸べられた闇からの手。優しく、たおやかな家族にのみ許された親しみの込められた指先。それを、自分が振り払った。 今、自分を支える人たちを裏切りたくなくて。それまでの自分を否定したくなくて。ただ、駆け巡った衝動に身を任せて。 自分の肉親が魔の者であるというのなら、憎しみの根源は彼らが振り撒いたようなもの。 血はただ冷えていく。脳裏に浮かんだ小さな、矮躯の黒髪の少年の――アルトの微笑み。彼の父、兄を殺したのが自分の本当の家族であるのなら。 それだけではなく人の敵として災禍を刻んでいる。あらゆる悲しみと憎しみの根源は魔族なのだから。そのおぞましき血はシエルの身体にも脈々と流れている。 自身の扱う呪文の才ににしても、その血から与えられたものだとしたら。聖なる奇跡を齎すのが魔族の血潮から生じるものだとしたら。そう考えれば考えるほど、心に影が差し込んでくる。 家族が振り撒いた呪いが、シエルを緩やかに染め上げていく。 世界を脅かす者たちが自分の本当の肉親。多くの悔恨を残して、その全てが呪詛となって、自分に跳ね返ってきているようにも感じられた。 耳を塞いで、毛布に顔を埋めてシエルが呪詛を遮断する。悪寒は消えることなく、隙間から全身に入り込んで、自分を支配しようとする。 少年のアルトの顔が離れてくれない。 微笑みの残滓が心に張り付いたまま、脳裏に留まり続ける。振り払おうとしても、どうしても浮かんできてしまう。彼の笑顔を見たいと……思ってしまっている。 人を安心させるあの笑顔を見たいと心が求めている。安心したいと、求めてしまう。傍にいたらいけないはずなのに。アルトに縋ろうとする弱さだけしかなくて、それを噛み殺してしまいたかった。 だからこうして縮こまる。 全てから逃避して。自身を苛むものから目を背けたくて。 今はただこうしているだけの無力な身体。無気力な意思。 それで全てから逃げられるわけがないとわかっていても、そうしてしまう二律背反。 ふと、控えめにドアを叩く音が耳に入ってくる。 それにシエルは応えることもなく、黙り込んだまま暫しの静寂が訪れる。正直に言えば、誰とも顔を合わせたくはなく、やり過ごすつもりであった。 返答のない扉に困ったのか、もう一度だけノックする音が聞こえてくるが、シエルはそれに受け応えずにただベッドの上で縮こまっているだけだった。暗闇の静寂にそっと息を潜めて待つ。 「……入るよ?」 声にシエルの心臓がどきりと跳ねる。一番聞きたくて、聞きたくない声。 あ、と小さな戸惑いが声になって漏れ出てしまう。それに悔しく、情けなくもあった。 「入ら、入らないでください」 戸惑う唇は拒絶して、少年の侵入を拒む。 それに残念に思う自分と、安堵する自分が両方シエルの心にいた。 小さく顔を振り被って、自分の顔が紅潮しているのがわかる。 「……ごめん」 「ごめんなさい…」 思わずに謝って、シエルが一息を付く。 じわりと胸の痛みが染み出してくる。罪悪感からか、場違いに感じている痛みか。せめぎ合う感情が押し寄せてきて、表情が強張ってしまう。 互いに何も喋らず、交わす言葉もない。それだけで時間が流れていく。 そもそも自分などが気軽に傍にいていい存在なのか。 勇者という言葉だけで、触れてはいけない畏怖すべきモノなのだと認識してしまう。遠く、彼方に輝く全ての人の希望たる象徴。 今のシエルには眩し過ぎて、近寄ることすら畏れ多い……。 「僕は約束を守れなかった――」 アルトが言葉と共に、罪悪感を絞り出すように言う。 「約……束?」 「守るって言ったのに……僕は」 声は消え入りそうだった。 こんな、こんな自分を守れなかったことを悔やんでいる。それが穢れた血が流れている女でも―――。 「なん……で」 声を出すことすらやっとの掠れた声。 気が付けば頬に、多量の水が滴っている。それはとても熱くて、とても冷たい。押し寄せる感情の波が弾けた証だった。 こんなみっともない姿を、今のアルトには決して見られたくない。自身の嫌悪感混じりの嗚咽が口から漏れ出る。押し殺そうとしても、それは呑みこむ事は出来なかった。 「泣いているの……?」 アルトの問い掛けに答えられずに、シエルが嗚咽を一つ殺した。 「ごめん、なさい」 堰を切った感情は留まらず、喉に突っかかる。シエルが一言だけ謝ると次の言葉を告げようとするが、うまく唇が動かずにそれがもどかしく感じられた。 「今は…色んなことがあって、知らされて……うまく整理できない、だけですから、平気です。大丈夫ですから」 ぎこちなく、シエルが笑う。 少しでも、アルトに安心して欲しかった。それは間違いなくシエルの本心から出たものだった。 「それは嘘だよ。―――だってシエルは今、泣いてるじゃないか」 静かだけど、シエルの心を抉る鋭さを持った響きだった。きゅっと小さくシーツを握り締める手は震えていた。心を見透かされたようで、居心地が悪い。 「僕はその苦しみをわかってあげることも、代わってあげることもできないかもしれない」 「アルト君は意地悪ですね。だったらアルト君には何が出来るんですか…?」 独りごちるように掠れた声で問い掛ける。 「シエルの味方になることが出来る」 「もし、もしも、わたしがもし、後々世界の全てに、仇成してしまうかもしれなくても…?」 「それでも。そうなら、僕が救う。失ってしまったのなら笑顔にしてみせる……必ず」 アルトの言葉に、閉じかけていた心に一筋の光が見えたような気がした。 また目から涙が溢れ出してくる。さっきまでの自虐の涙とは違った涙だった。苦しみはなく、心に温かいものが入り込んでくる。それを拒もうとは思わなかった。 「ありがとう……」 小さく言うと、シエルから自然と笑顔がこぼれた。ドアの向こうからうん、と頷きが一つ聞こえてきた。 「わがまま、言っても良いですか?」 アルトがどうぞと促して、シエルが言葉を続ける。 「一曲、演奏をお願いしてもいいですか。このまま眠ればまた悪い夢を見てしまいそうで……」 「うん…それなら、喜んで」 暫くして、優しい子守唄が奏でられる。 穏やかな音色はもし悪夢に呑まれそうになっても、そこにアルトが来てくれそうな気がして。音楽に包まれて、シエルの涙はもう、止まっていた。 一曲演奏が終わる頃には、規則正しい寝息が扉の向こうから聞こえてくる。 ほっ、と胸に安堵を覚えたアルトは一瞥すると、顔を綻ばせる。 テドンから帰還してから数日が経ち、シエルはずっと部屋に閉じこもったままだった。食事も碌にとっていないらしく、ただやつれていくだけの彼女は見ていられなかった。 少しでもシエルが安らかになれたのなら、それは嬉しいことだ。 もう一度でも彼女の優しく、朗らかな笑顔を見られるのなら、そのために出来ることは惜しまないつもりだ。アルトも心からそうしたいと思う。 「おやすみ……」 静かにシエルの部屋の扉に向けてアルトが囁くと、踵を返す。 薄暗い通路の途中でアルトが立ち止まり、横笛を握り締めたままの掌を見つめる。 守り切れなかった。 それだけかつて魔将は強大な存在であり、まだまだそこに自身の力が届いていない証だ。未熟の対価としてシエルの心を深く傷つけてしまった。 重い……彼女が心を閉ざすだけのことをあの魔将から知らされたのだろう。アルトが無神経に踏み込んだら、恐らく更にシエルを傷つけてしまう何かを。 もっと強くなりたい。 その想いを噛み締めて、アルトが真っ直ぐに前を見つめる。 もう二度と目の前で大切な誰かを守れないなんてことがないように。 窓から差し込む光は、少年の影の輪郭を濃くして彼方まで向かっていた。 「しけた面をしているな」 鋭い声にアルトが顔を上げると、バーディネが通路の岐路に立っていた。窓から射す陽光が彼の銀色の髪を絹糸のような煌きを与えて、輝く。 「辛いところだな」 「……辛い?」 バーディネに、アルトが聞き返してバーディネが短く嘆息したようにも見えた。預けていた壁から身体を離して、アルトの前に立つ。 「お前は負けて、シエルは心を閉ざした。お前はどうするつもりだ?」 試すような眼光をアルトに向けて、バーディネは佇む。 鋭い眼差しが向けられると同時に、周囲の空気が張り詰めていくのが肌で感じられる。口を引き結んで、答えをアルトが探る。 「慰めれば傷つける。向き合えば傷つける。理解したつもりになれば傷つける。心ってのは、本当にどうしようもない」 「そうだね……そうかもしれない」 自虐気味にアルトが笑みを作る。 「だけど……わかろうともしなければ余計に傷つけてしまうことだってある。知れば分かち合えるかもしれない。だからそこから逃げちゃいけないんだ」 バーディネのどこか寂しげな瞳に、アルトが強い意志を持って向き直る。 「綺麗事だな」 「綺麗事だよ。だから、そうしたいんだ」 ふ、っとバーディネが笑った気がした。どこか寂しげな瞳のまま。 「受け取れ。これはお前が受け取るべきものだ」 バーディネが懐から、掌と同じ大きさの宝玉をアルトに向ける。覗き込むと吸い込まれてしまいそうな……深遠の翠に輝く宝玉。 「―――宝珠」 覚えがある。かつてアリアハンで奪われたのと同一のモノが目の前にある。 「そうだ。魔族がテドンに現れたのは結界が縺れ、これを奪う千載一遇の機会だったからだ。俺はこれを、これを守っていた奴に託された」 バーディネが簡潔に告げ、更に人の世界と神の世界を繋ぐ鳥の神、ラーミアの魂だと付け加えた。 宝珠を託されるという意味はあまりにも大きい。多くの悲劇を紡いで、今、ここにあるということだ。 その悲しみを引き継ぐ……とても小さな宝玉なのに、とても重い物と感じられた。それをアルトがしっかりと握り締める。 「お前はもう立ち向かえるだけの武器を持っている、と俺は思う」 「武器……?」 「後は自分で考えろ」 バーディネが弱く微苦笑を浮かべて、アルトはそれを見つめていた。 「―――俺はそれを持つ事が出来なかった」 バーディネの独白は、どこかに響くことなく大気に消えていった。 きっと、バーディネが言いたいものは心のどこかにあるものなのだろう。今のアルトにはそれしかわからなかった。
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