かつて、世界中を巻き込んだ戦乱の時代があった。
 より安全に、より効率的に、より殺傷能力が高い術式が要求されていった時代があった。
 呪文の探求を目的として、呪文の修練を目的としたのが学術都市ダーマの興りであった。魔法使い、僧侶たちが集ったこの地は戦乱の中で様々な立場の人間が集まり、数多くの呪文を確立していった。遥か太古には神の意を受けた者が使役するに限られた呪文も学問として成立し、目覚しい成果を挙げた。

 世界中から集った英知を保管する場として自治権を得、どんな諍いにおいても決して中立を崩すことはない。
 ダーマに眠る膨大な魔の力は各国に、更なる混沌を齎す。
 ダーマが肩入れをすれば早期に戦乱は収まるかもしれない。だが、それ以上の破壊がある。故に中立としてどの勢力にも肩入れをすることはない。

 そのためか俗世から隔離するように、深い山脈の底に存在していた。
 ダーマの白亜の宮殿が鬱蒼とした濃緑の森を、威圧感と神々しさと共に兼ね備えて睥睨していた。
 その場所を辿るように鬱屈とした鉛色の空の下、アルトたちはダーマへと続く街道を進んでいた。港町に船を停めた後、ダーマ神殿を目指して北上していた。

「あまり無理しないで」
「ありがとう。でも、わたしは大丈夫ですから」
 気遣うユイに、シエルが微笑んだ。
 ずっと部屋に閉じこもりきりだったシエルだが、アルトとのやり取りの後、部屋から出てきて、少しずつではあったが笑顔を見せるようになっていた。
 ふとした一瞬、儚げな遠い目をすることがあり、影は消えていないようにも感じさせる。

「本当に大丈夫だから…」
 どこかぎこちなく、シエルが笑顔を作った。自身の心に言い聞かせるように小さく、俯きがちに視線は堕ちていった。
「………わかった」
 ユイもそれ以上の言葉もなく、踵を返す。

 そんな二人のやり取りを見て、アルトはどこかやりきれないものを感じる。
 表向きは笑顔が戻ったようにも見えるが、まだ心に影が残っているようにも見える。
 まだ本心を語らず、何か重たいものを華奢な身体に背負わされたのを隠している……それとも、自分自身でも受け止めきれずに戸惑いっているようでもあった。

 無遠慮に踏み込めば、きっと更にシエルは傷つくだろう。誰にも踏み込んで欲しくないものがある。知られたくないものがある。今、詮索すればまた、一つ彼女を追い込んでしまう。
 たった一人でその事実を受け止めようとしているその姿は強くもあり、儚くもあった。いつ崩れ落ちても不思議ではないほどに、今も揺らいでいる。

「待つことも一つの戦いだ。…苦しくともな」
 擦れ違い様に振り向くことなく、バーディネが一瞥する。
「わかってる。今は僕にできることなんて……きっとない」
 バーディネに弱く微笑を向けてからアルトもまた、自分に言い聞かせる。前を歩く少女の姿があまりに遠く、儚い蜃気楼にも見える。近づけば拡散して、手が届かないところに行ってしまう。
 こんなにも近くにいるのに、こんなにも遠くにいる。それは苦しく、悔しかった。


 ダーマ神殿は厳かな空気と静寂を纏って、アルトたちを出迎えた。
 静まり返っているといっても寂寞さからではなく、人はそれなり行き交っている。やはり多いのはダーマに仕える僧や魔道の探求に勤しむ魔法使いらしき者が多かった。
 ダーマは学術都市として栄えているため、納得といえば納得だが。
 ちらほらと神官や探求者に混じって、剣を携えた戦士、筋骨隆々とした武闘家、盗賊らしきトレジャーハンターの姿まであった。ふと、アルトの視界を豊満な体付きをした美人が、扇情的な衣服のまま横切ってどぎまぎする。
 厳かな神殿において彼らの存在に戸惑いながらも、神殿の門を潜る。

「神殿って言うからには、神官とかお堅い人ばっかりかと思ってたんでしょ?」
 横目でメリッサが、アルトのことを見やってにやりと笑った。
「ここ、ダーマ神殿は転職を司る場所でもあるの」
「転職って……武器屋が防具屋になるみたいな」
「そういうのとは訳が違うわ。一つの道の頂点……極みへと辿るための探求ってとこか」
 アルトの問い掛けに首を振りながらも、メリッサが神殿の白の大理石を歩破しながらも更に続ける。

 職業としての登録はアリアハンにあったルイーダの酒場のような、各国のギルドでも出来る。
 ダーマに置いて、他の職業に就くための、神の啓示と祝福を受けるための場でもある。一つの極みを辿るための道筋を知り、更なる高みを目指す。
 更なる高みへと目指すことを許されているのは戦士、武闘家、魔法使い、僧侶、商人、盗賊、遊び人の七つに加えてもう一つあると自慢げに語った。

「賢者、だ」
「あだっ!!?」
 メリッサの言葉を遮って、分厚い書籍がメリッサの脳天を直撃する。
 恨めしそうにメリッサが見ると青い髪の長身美麗な青年がそこにいた。眉間に皺を寄せて、見下すような眼光で青年が彼女の視線を受ける。
「戻ってくるなら連絡ぐれい入れろ。馬鹿弟子め」
「うっさい! 普段は女の尻追っかけてていない癖に!」
 ジト目で睨みながら、メリッサが頬を膨らませる。イシスの時に助けてくれたあの時の賢者だ。

「うおのめさんでしたっけ?」
「ヴォルディークだ…ッ!!」
 アルトが顔を赤くするのと同時に、隣でメリッサが大袈裟に爆笑していた。そんなメリッサに更に勢いよく脳天に本の角が直撃した。その後、ヴォルディークが大袈裟に咳をしたのだった。

「付いて来い。お前らを呼んでいる」
 ヴォルディークが顎で射すと、踵を返して付いてくるように促した。
 荘厳な雰囲気の中を賢者に案内されているというのは中々目立つようで、擦れ違う神官たちに奇異の目に晒される。歩き続けて、神殿の最奥の一室へと案内される。
 ヴォルディークが乱雑に扉を開けるとそこは文字通り本の墓場だった。規則正しく並ぶ本棚は知識の墓標を連想させ、乱雑に地面に捨て置かれた本は死体を思わせる。

「おい、起きろ婆ァ」
「寝起き早々に失礼な奴め…」
 本棚の隙間からしわがれた声が響く。ばっ、と勢いよく本の山から足が飛び出して小柄な人影がひょっこり顔を出す。

 顔を見せたのはまだ幼い少女だった。歳相応の可憐な美貌を持ち、目が大きく瞳は水晶のようであった。
 燃える真紅の如き長い髪を足元で引き摺る程度に伸ばていた。前髪を無造作に掻き分ける姿は妙な色気があった。
 少女は灼熱色の瞳でヴォルディーグを見てからまだ寝ぼけ眼を擦って、小さく欠伸を噛み殺す。
「こんなぴちぴちぎゃるを捕まえといて、婆ァ呼ばわりする不躾者が何の用だ…」
「連れて来いって言っておいて、また一眠りするな糞婆ァ」
 乱雑に少女が埋もれている本を投げ捨てて、ヴォルディーグが猫を掴むようにワンピースの裾を掴む。

「そーかー、連れてきたかー」
 少女が思いっきり天に背伸びをする。ヴォルディーグを手を振り払って背筋を伸ばし、アルトたちへと向き直る。小柄な体躯に似合わないしわがれた声で言う。
「この私がこのダーマを統括する美少女兼賢者のシェヘラザードと言う。以後、よろしくな」
「冗談だろう……?」
「冗談じゃないんだわ。これが」
 信じられないとでも言わんばかりのバーディネに、メリッサが失笑混じりに肯定する。

「時の砂の呪文で年を誤魔化しているだけだ」
「相変わらず口の減らないガキだな。お前は」
 シェヘラザードがむすっと口を尖らせて、鬱陶しそうにヴォルディーグが顔を顰める。無視したまま、シェヘラザードの紅玉の瞳がアルトの姿を捉える。時の砂の呪文は、自分の肉体の時間を遡り若返る呪文だとヴォルディークが嘆息混じりに付け加えた。

「さて……ようこそ、歓迎しようアリアハンの勇者アルティスよ」
 意味有り気に、シェヘラザードが微笑んだ。蠱惑的でどこか威圧感を覚える笑みは少女のものではない。
 超然的な雰囲気を身に纏った少女は、まだ名乗っていないのにも拘らずアルトの名を言い当てた。戸惑いを覚えながらもシェヘラザードを見やった。

「このダーマへと訪れた用件はさしずめ宝珠のことに関してと言ったところか。このダーマには古今東西世界中の知識が眠る。宝珠の記述もあるだろうて」
 またアルトの心の中を読み取るようにして、言い当てる。この眼差しが心の隙間に入り込んで、アルトの心の中そのものを言っている……底知れぬものを感じながらも、アルトが唇を引き締める。
「初対面なのに何故わかったか、不思議で仕方がないと面だな。ふっふっふっ」
 不適にシェヘラザードがにんまりと笑った。

「いい加減本題に入れ。お前が脇道に入るとキリがない」
「無粋な奴め……」
 シェヘラザードが口を尖らせた後、目を細めた。瞳にふざけた色は消え去り、真剣さと本来の歳相応の凛々しさが宿った。

「まあいい。ここにくることは天の啓示―――精霊の囁きで知っていた」
 精霊は人と天を繋ぐ超越存在だ。普段は目に見えることはなく、呪文を手繰るマナの根源的な存在で人もまたその恩恵を得ている。
 精霊もまた時に神の意を人に啓示することがある。例えば、アルトが勇者として任ぜられた時のように。
「勇者アルティス。君もまた……精霊の囁きを聞いたことがあるのではないか」
「―――確証は、ないですけど」
 シェヘラザードの紅の眼差しがアルトの視線を射抜く。
 思い当たる節はある。名も無き雷を操る時に……世界すら越えて、蒼と青の境界に意識が過ぎった瞬間に、垣間見える影。考え得るのはそれだけだったが、妙に納得は出来ていた。

「道筋は決まっている。運命とも言い換えられるな。この世界において人は果たすべき定めがある。その精霊の導きを示すのが私たち賢者とも言える」
「……―――けるな」
 聞こえない声が、アルトの耳を打ち、それが誰のものかはわからなかった。

「認めたくないか、少年」
「―――ッ!? 信じられるか! そんなものはッ!」
 バーディネが睨み据え、静かだが怒気の篭った声が向けられる。それに受け答えるシェヘラザードは冷ややかだった。そんな彼女の胸倉を掴みかねないほどに激昂するバーディネを見るのは初めてのことだった。
「そんな戯言をッ! 俺が! 俺がここまで生きてきたのは精霊なんてもののためじゃねえ! 俺は―――」
 そこまで言葉を暴発させてから、バーディネの言葉は形になることなく、唇を噛んだ。

「落ち着いて」
「―――すまん」
 アルトが止めたのを見て、さっきより冷静さを取り戻したバーディネは短く謝り、ただ俯いていた。
「定めを認めたくないのは、そちらの二人も同じ、……かな?」
 シェヘラザードの瞳はユイとシエルの二人の姿を映し、それにシエルの細い肩がびくりと震えた気がした。ユイもまた目を細めて、見やった。
 無言だったが……睨むような眼差しを向けるユイと、どこか心の中を探られる事を恐れているようなシエルだった。バーディネだけじゃなくて、二人もまたシェヘラザードの言葉を拒んでいるのがわかる。

「そこまでにしろ。婆ァ」
 ヴォルディークが言葉を挟み、シェヘラザードが短く息をついた。二人の賢者の間で短い静寂が差し込み、折れたようにシェヘラザードが肩を竦めた。
「わかったわかった。どうにも片意地を張ったのを見るとからかいたくなってねえ」
 張り詰めた空気が緩む。シェヘラザードがやりすぎたかな、と独りごちて苦笑いを浮かべた。

「知りたいことは宝珠だっけか」
 シェヘラザードが言葉を手繰る。紡がれた言葉を詩でもあった。
 遥か……遥か古にかつて神がまだこの世界に在りし時、神によって定められた三つの守護者が在った。
 一つは精霊。人の守護者にして、生物を守護する者。
 一つは竜。森羅の守護者にして、大地を守護する者。
 一つは神鳥。世界の守護者にして、時空を守護する者。
 闇が蔓延りしとき、幾度となく三つの守護者たちは戦い、神々と共に世界を守り続けてきた。光と闇の戦いは遠い昔から繰り広げられてきた。
 やがて神々は世界を去り、三つの守護者もまた姿を消した。世界は人のものとなり、歴史を紡いできた。

「それって創世神話ですよね……?」
「その通り。だけど、まだ続きがある」
 シエルに肯定しつつ、シェヘラザードが神話を紡ぐ。
 なぜ守護者たちが姿を消したか。精霊は繰り返される戦いで世界が穢れ、人の目には認識できなくなり、衰退した。竜は繰り返される戦いで数をすり減らし、滅びたとされる。残る神鳥もまた闇との戦いで滅びを迎えた。
 だが、闇は未だに存在し続けている。現に世界は魔王バラモスの脅威に晒されている。
 これは神話ではなく紛れもない現実だ。かつて人の代わりに戦った守護者たちはもういない。人は自らの手で世界を守らなければならない。

「神と守護者らがこれを予見していなかったというわけでもない―――」
 シェヘラザードの眼差しが、アルトを見た。
「闇が蘇る時、光もまた蘇る。銀、蒼、紅、翠、黄色、紫の六つに別たれた神の御魂の導きにて新たなる守護者が現れる。それが……」
「……勇者」
 アルトがぽつりと呟き、自身に刻まれた称号に思いを馳せる。新たなる人の守護者。世界を守るもの……それが勇者。

「その通り。君にはそれは重いものかな?」
「いいえ、僕は僕にやれるだけのことをするだけです」
 アルトが首を振る。自分にしか出来ないことをやる。それがみんなの笑顔を守れることに、繋がるのなら。迷いもなく、躊躇いもなかった。

「魔王はネクロゴンドの奥地に潜んでいるわ。天然の障壁……絶壁の山々を越えるには翼在る者たちの王の力がどうしてもいる。神の失われたこの世界にて、太古に封じられた守護者を解き放す。これが今の私が教えられる導き……」
 その言葉の重さに、アルトが身を引き締める。
 真に勇者となるためには、かつて世界を守護していた者たちの加護がいるのかもしれない。もう戦えなくなってしまった彼らの代わりに、世界を守るためにも。




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