鉛色の空は、黒く色を変えていく。一雨来そうな鬱蒼とした暗雲が大地を支配していく。雲の隙間を駆け巡る遠雷は魔物の咆哮にも似て、地上に反響しては消えゆく。 ダーマ神殿の書庫は空の色と同じ暗闇と、本を捲る音が耳に届く。 知識が集う学術都市だけあって、本棚は天高く天井に迫るぐらいの高さはあった。人の矮小な背丈を見下ろす本棚を擦り抜け、目的の本だけを探すのはさすがに骨であった。 時計の音が時を刻む音を幾度も聞き、漸く幾つかの本を探し出すことが出来た。 「相変わらず広過ぎ……」 メリッサがうんざりしたように言うが、その時間もまた惜しかった。 シェヘラザードの言葉の通りならば、宝珠を全て揃えることが成すべきことになる。示されたのは銀、翠、蒼、黄、紅、紫の六つ存在することになる。今、手元にある翠、魔族に奪われた銀を除けば残り四つ。 太古の伝承を記した記述によれば、銀はアリアハン、翠はネクロゴンド、蒼はランシール、紫はジパング、紅はサマンオサに収められ、それぞれ国に似て神の御魂を守護し、管理してきたと記されている。 「黄色の宝珠に関する記述は記されてないか…」 「どれだけ読み返してみても、それらしい話はない、ね」 バーディネの言葉に、アルトが同意する。 黄色のみ、場所が特定できずにいた。他の宝珠とて絶対的な確信はないのだが、輪をかけて黄色の宝珠は探し出すのが難航しそうだと思うと、頭が痛い話だった。 「他の宝珠だって一筋縄ではいかない。サマンオサは今、アリアハンと小競り合いをしている状況にあるし、ジパングは鎖国状態で情報が遮断されてる。だけど、一番厄介なのが」 「……銀の宝珠か」 ユイの言葉を引き継いだ後、バーディネが短く嘆息をする。 銀は魔族の手に堕ちている。魔王の元に向かうために必要なものが、魔王に掌握されている。奪還するにしても、銀の宝珠はネクロゴンド奥地にある。 ネクロゴンドの奥地へと向かうために必要なものが、そこにあるというのは更に頭が痛い。 宝珠に関してどれを優先するにしても一筋縄ではいかなさそうだ。運命が神によって導かれているのだとしたら、これも予定調和の内なのだろうか。だとしたら随分と悪辣なことだ。 いずれにしても、ここで手詰まりでは先が思いやられる。 アルトは考えを切り替えて、場所がわかっている紅、蒼、紫を優先すべきだろうと考える。紅が今、難しい状況にあるのだとしても。 「銀と黄色を後に回すにしても、残る三つ。どれを優先するかだけど」 「まあ、場所から言えばジパングよね。ダーマからさほど遠くないし」 メリッサが頬杖を突いたまま言う。広げた地図が現在地を羽ペンで指し示し、バーディネがジパングの場所を指し示す。ジパングはここ、ダーマから東にある。距離で言えば一月と掛からないだろう。 「ジパング、か……」 ぽつり、と呟いたユイの瞳は、遠い何かに思いを馳せているようだった。 「どうかしたの…?」 「いいえ、なんでもない。気にしないで」 アルトの気遣いに、きっぱりとユイが言う。強い言葉ではあったが、どこか寂しげでもあった。凛としたその眼差しに憂いがあった気がした。 「ジパングってどういう国なの?」 「ジパングは言ったことがある人間が言うには何もかもが黄金で出来ている国……らしい。眉唾な話だがな」 アルトの問い掛けに、胡散臭げにバーディネが答える。 何もかもが金色で出来ているのであれば、金色の町並みを想像してもいまいち、実感を沸かなかった。想像だに出来ない光景が広がっているのであろうか。 「だったら、地面に金が落ちてたりとか? 拾い放題とか?」 「そんなわけないでしょう……」 目を輝かせるメリッサに、淡々とユイが嘆息していた。 他国と国交を閉ざして久しい国、ジパング。 噂や憶測は多々流れども、そこに行った人間は少ない。極東にある島国は旅人が訪れるには遠過ぎる。遠いからこそ、極東に何かの幻想を感じるのも道理と言うことか。 事実憶測が入り混じるからこそ、東に魅せられる人間も多いのだろう。 だが、国を閉ざすからには相応の事情があるはずだ。幾ら大国と離れた地に存在するといっても国交まで断つほどの何かがあるのか。 「とりあえず、先にジパングを目指すのは決まり、かな」 アルトが皆の顔を見て、確認する。異を唱えられることもなかったため、これで次の目的地は決まった。 「シエルも、それでいい…?」 「あ、はい、わたしから特に…」 ぼんやりとした面持ちで見ているシエルに尋ねて、我に返ったようにシエルが頷く。覇気のない今のシエルの姿に心配を抱くが、それを呑み込んだ。 「でも、これ以上のものとなると、ガルナの塔に行くしかないか……」 頬杖を突きながらメリッサが言う。 ガルナの塔とはダーマ神殿の北にある聖域のことだ。 神代の時代から存在する書物が納められ、許可がなければ立ち入ることの出来ない場所だ。そこならば、確かにより明確な宝珠に関する記述はあるかもしれない。 ダーマである程度はわかったが、より明確な情報が欲しい。 黄の宝珠の行方、六つの宝珠を揃えたとしてどこに行けば神鳥が蘇るのか。まだまだわからないことが多い。それがわかるのならば、行ってみる価値はありそうだ。 「賢者たちの修行場みたいな場所だし、本当に封印されないといけない本とかがあるそうだから、そう簡単に許可は降りないと思う」 「禁術……」 シエルがぼそり、と呟く。 人の手では制御することが出来ず、禁じられた呪文が少なからず存在する。 魔法使い、僧侶の扱う攻撃呪文は上位になれば威力も範囲も上がるが、それとは一線を画す天災級の威力と破壊を齎しかねない呪文、失われた死者の肉体を完全なものとして蘇生し、無から有を作り出す呪文などの、神の御業そのものを再現し、世界の断りを歪めかねないものが禁術として扱われる。 かつて人と人との争いが、熾烈を極めた際に生まれた負の遺産。それが禁術。 人には知っていいものと知らなくていいものがある。過ぎた力は使用者のことをも滅ぼしてしまう。だからこそ、禁術として封じて人の目に届かない知識の塔へと抹殺した。 ダーマが中立を保っているのも、この存在を完全に秘匿する義務があるからだ。 宝珠に関することとはいえ、恐らく許可は下りないであろう。 それがアリアハンの勇者の頼みとあっても、だ。 まだダーマの書庫には宝珠に関する書物があるかもしれない。それを地道に当たっていくしかないだろう。アルトが視線を送り、本の樹海のような本棚の群れからまた探していくしかない。 「もっと……宝珠じゃなくてもさあ、宝石に詳しい人がいればいいんだけどねー」 メリッサがうんざりとした面持ちで言う。 その言葉に、ふとポルトガで別れた友達の顔を思い出して、アルトの顔が少しだけ綻ぶ。 商人として道を選び、違う道を歩む事を決めたルシュカは今も元気でやっているだろうか。商人たちが集う街で、自身の力量を研鑽し、努力を重ねていることだろう。 別の道を歩む友達に胸を張って会うためにも、前を向いていかないと。 やはり、知識の集まる国といえども宝珠に関する資料は少なく、作業は行き詰っていた。 気分を変えるために、神殿の書庫を抜け出して一息を付く。風はどこか湿っぽく一雨来そうだった。 それでも書庫に籠もりきりであったアルトには外の空気は新鮮に感じられて、大きく深呼吸をする。 ここ数日ずっと同じ様な鉛色の空が続いている。ダーマ地方は雨季を迎えているためで、晴れ間が顔を覗かせることは少ないそうだ。暗い空の色がそのまま心に染み込んで来るように、落ちてきそうな空であった。 うーん、と背伸びをしてアルトが背筋を伸ばす。伸びた背が緩んで、緊張が解れる。 ふと見てみれば、神殿の回廊にユイが座り込んで、ほう、とした面持ちで空を見ていた。さっき一瞬だけ見せた寂しげな眼差しで空を仰いだまま、そこで時が止まっているかのようだった。 物憂げな雰囲気が時の歯車を留め、時間の悪戯が一瞬だけをその場に留めたような……凛とした佇まいに、儚さが入り混じったユイに、アルトは見蕩れてしまっていた。 不意に、時間が流れ出す。ユイの視線が動いて、アルトと視線が合う。 「君も書庫から抜け出してきたのか。―――まあ、仕方ないよね」 ユイが悪戯っぽく微笑んだ。 アルトも隣まで歩み寄って、そこに座った。 「ずっと、資料を探しだからね。外の空気が吸いたくなって」 「なんだ私と同じか。書庫だからか埃っぽいし、気が滅入るわよね」 ユイが思いっきり背筋を伸ばして、深呼吸してみせた。 「そう、かな? 本の匂いで僕は嫌いじゃないけど…」 「変わってる。湿っぽいだけじゃない」 頬杖を付いたまま、ユイがからからと笑った。 思えば、ユイはどこか張り詰めた凛とした表情は見せども、屈託なく笑うのを見たのは、これが初めてかもしれなかった。こんな表情の彼女を見れたのは少し嬉しくもあった。 「そういえば、これが初めてかな。あなたとこうして二人きりで話すのは」 「そういえばそうだね」 ユイと旅をするようになって、二ヶ月あまりが経つがあまり言葉を交わした機会はなかった。 元々ユイも口数が多い方ではないため、こうして話すのは新鮮だ。 「シエルとは何度か、話したことはあるんだけど」 ユイが目を細める。あまり誰かと話している姿を見たことがなかったため、意外だった。 テドンでも、シエルの身を案じてくれていたのもユイだった。 「最近塞ぎこんでいるから、早く彼女も元気になってくれるといいけど。やっぱり、シエルは笑った顔の方が似合うと思うし」 「うん……何かを独りで耐えているようにも、見えるから…」 案じるユイの姿に、アルトが頷きを返す。ユイなりに塞ぎこんでいるシエルの姿を心配してくれているのがわかって、アルトは少しだけ嬉しく思う。 旅をしている仲間たちは、それぞれで何かを抱えている。 それに対してアルトは何が出来るのか、どうすればいいのか。 アルトが見上げた空は想いを呑み込んで、黒へと変わっていく。堅く拳を握り締めて、目を細めた。暗雲を今にも泣き出してしまいそうだ。 それでも、答えは決まっている。 「出来ることをするだけだよ。僕に出来るだけのことを。余計なお世話かもしれないけどね」 遠い暗雲を見上げて、アルトが言う。 もう一度心からの、彼女の笑顔を取り戻せるためにできることをするだけ。 ただそれだけのこと。たったそれだけのことだ。 「彼女はとても、……幸せね」 「……えっ?」 小さな言葉を言って、ユイがあの遠い……寂しげな眼差しで微笑んだ。 驚いて、視線が交錯するがアルトはただ、その眼差しを受け止める。 「―――……しい」 劈く稲光が耳に轟く。 二人の間に割って入った雷光に、全ての言葉は掻き消されてしまった。それを聞き返すことは憚られた。 ユイは視線を逸らして、遠い暗雲へと視線を送った。 また、あの寂しげで、儚い眼差しだった。 言葉を包み込んだ雷光がまたどこかで鳴り響いていた。荒れた空は人嵐来るのを訴えていた。 轟音が轟いた。 雷鳴に紛れて劈いたのは、どこかで爆ぜた爆裂音。 ダーマを覆い隠す森の彼方は紅だった。 地と空の狭間は不気味な真紅が赤々と燃え盛っていた。遠くに上がる煙に、アルトたちが立ち上がる。 この音は書庫にいた仲間たちにも轟いたみたいで、バーディネたちも飛び出してくる。 「何があった――ッ!?」 「わからない。でも、ただ事じゃない!」 バーディネの質問に答えを返すことは出来ず、アルトは遠い彼方の爆発を見つめる。 ただ事ではない事態に神殿そのものがざわめいていた。突然の混乱に、神官たちも、参拝客も、冒険者も皆慌てふためている。 答え代わりとばかりに、不気味な黒煙が上がり、一つ、二つと爆発と轟音が続く。 「お前さんがたは無事だったようだな」 ひょこっと紅の髪の小柄な少女が顔を出す。シェヘラザードが無表情で遠くの黒煙を見据えていた。 「何が起きてるんです…!?」 「魔族だ。どす黒い瘴気がここまで漂ってくるようじゃの」 しれっと言うシェヘラザードに、アルトがこの緊迫した事態の理由を知る。 あの時のイシスと似た混乱。魔族の襲撃にダーマ神殿が晒されている。あの黒煙の中で、命が消えていっている。硬く、堅くアルトが拳を握り締める。 「それで? お前さんたちはどうするつもりだ?」 意地悪くにんまりと、シェヘラザードが笑った。わかりきった返答を要求する意地の悪い笑みだった。 「行きます!」 迷いなくアルトが言い切る。それから踵返して、弾かれたように走り出した。バーディネたちもその後に続く。その後をシェヘラザードを見送る。 「うむうむ。今のアリアハンの勇者の実力とやらを見せてもらおうじゃないか」 「おい婆ァ」 振り向かずとも、ダーマにおいてシェヘラザードに不躾な態度を取るのはただ一人しか心当たりはない。青銀の髪の長身痩躯の青年、ヴォルディークを一瞥してみる。 「わかっておる。そんな簡単にダーマは堕ちん」 「んなことはわかってる。だが万が一のこともある」 「あー……わかってる。ガルナの知識を魔王の奴に知られるわけにはいかん。だからこそ、今のこの状況なわけなんだけど」 ガルナの塔には様々な埋葬された知識が眠る。 例えば先史文明の知識……黒歴史のものが封じられている。今ある人類に害を成す知識もまたある。それを解き放たせるわけにはいかない。その管理者としてダーマの賢者たちがいる最大の理由だった。 「ヴォルク。勇者殿はお前さんに任す。私はいざという時に備える」 「あいつらでどうにかなるといいがな」 ヴォルクは森の向こうに視線を映す。勇者アルティスが混乱の渦中に今、向かった。光に選ばれた者の力はどれほどのものか、見せてもらおうではないか。 挑発的に、シェヘラザードが唇を歪める。個人的には彼らは嫌いではなく、好感が持てる人間だ。自分ではごめんだが、ああいう人間がいてもいい。 踵を返さずに、ヴォルクの姿は消えていた。 シェヘラザードが見上げた空は重々しく、空そのものが落ちて来そうであった。
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