欝蒼とし、静寂であるはずの森は広く開かれていた。
 蹂躙され、無残な姿で破壊された木々はそのまま晒され、吹き抜ける生温い風が破壊の痕に吹き荒ぶ。
 雷音が唸る音がさっきまでより大きく反響する。アルトたちの目の前に黒き騎士の姿を衆目に晒すように、一つ稲光が轟いた。

「そぉ……ソードイド様……」
 深手を負ったスカイドラゴンで、己が主を見上げて呻き声を上げる。黒き騎士は一瞥をすることなく、黙したまま、握り締めた甲冑よりもどす黒い負の波動を放つ、白き剣の柄を硬く握った。
 風は慟哭の風だった。大気が悲鳴を上げていた。黒騎士の存在に震え上がるかのように。その恐怖が重く圧し掛かって、空そのものが堕ちてきそうだった。こんなに空が広いのに、こんなに空が狭い。

「……まさか、魔王の側近様が出てくるとはな」
 ヴォルクが口元を歪めて、笑いを見せる。だが、さっきまでの余裕めいた笑みとは違い、どこか焦りを感じさせた。それだけ圧倒的な存在が目の前に立っている。それだけはアルトにも伝わった。
 いつでも魔力を解き放てるように、何気ない仕草からもヴォルクが臨戦態勢に入っている。

「スカイドラゴンよ。今は退け」
「し、しかし……」
 言い縋ろうとしたが、無言の威圧にスカイドラゴンすらも言葉を無くして、ただ頷くのみだった。強い光が瞬いた後、ダーマを侵略してきた者の気配は消え去っていた。
 だが、魔将はこの場に残り、依然その強烈な気配を放ったままだ。一瞬だけ兜の奥の眼光が、アルトを見やった。身体を刃で貫かれたように錯覚させる眼光が射抜き、アルトは肌を粟立たせる。

 ヴォルクが魔力の煌めきで軌跡を描きつつ、扇状の軌跡から閃光が迸り、空気と入り混じって、超高温の熱風がソードイドに襲い掛かる。極大の閃熱は白の魔剣が薙ぎ払い、硝煙だけ残して消滅させられた。
「生憎だが、お前は敵の幹部の一人だ。ここでお前が倒れれば魔王の側にも痛手になる。違うか?」
「ふっ……私に挑んでくる者を無碍には出来んか――」
 それまで緩やかであったとすら言える殺意が爆ぜる。ソードイドの放つ剣気で、彼の周りだけ歪んですら見える。ヴォルクもさっきまでの余裕のある素振りは消えていた。

 ソードイドが大地を裂帛の気合と共に踏み抜いて、黒い旋風が舞う。
 距離を取らせまいとヴォルクが離れ、後ろに大きく飛び退り、その瞬間に指先に小さな、だが膨大な魔力が込められた黄金の火球を撃つ。黒騎士をも呑み込んで、焦熱地獄となった炎が嬲るが、紅蓮を突き抜けて、黒騎士が白き魔剣を振り下ろす。
 白き魔剣の一撃はまさに必殺だった。
 怨念の魔力に塗れた、禍々しい波動を纏った破壊の剣は劈いた暴風を切り裂き、ヴォルク諸共大地を粉砕し、灰燼と成す。天へと還ろうとした粉塵が叶わずに、大地へと舞い散る。

 紙一重の所でヴォルクが避け、舌打ちをする。
 魔力にて生じた碧の光と、蒼の光が包み込む。ピオリムで加速し、スクルトの鎧を纏ってヴォルクは駆けた。
 ヴォルクがアルトに一瞥をして、さっきよりも小さな紅蓮の火球を……ソードイドの足元に放った。爆発と同時に紅蓮の炎と粉塵が黒騎士の姿を呑み込む。
 爆風に呑み込まれた瞬間を狙って、ソードイドにヴォルクがメラミを続け様に放ち続けた。絶えず放たれる火球の弾幕にソードイドといえども反撃の隙はなかった。

 さっき一瞥したヴォルクは確かに、目で逃げろと訴えていた。
 大掛かりな上級呪文ではなく、中級呪文に切り替えたのはアルトたちが逃げる時間を稼ぐためだ。
 シエルも、バーディネたちも、勿論アルトも重たい傷を負い、動くことは難しい。
「今、僕が出来る事をしなくちゃ…」
 言うとアルトは頷く。まずは傷の治療をするのが不可欠であろう。そう思った瞬間には抱かかえたシエルに、ベホイミを詠唱し、少しでも傷を癒す事に専念をした。


「やはり、か……」
 ヴォルクが舌打ちをして、硝煙を睨む。
 硝煙を引き裂いて黒騎士の姿が現れる。破壊の剣を振り被り、大気そのものすら絶命させる一閃が瞬く。ただの横薙ぎの一振りなのに、大地が引き裂き、破壊の粉塵が舞い踊る。
 ヴォルクが紙一重で避け、敵の間合いを裂けながら距離を取りつつ避け続ける。

「攻撃呪文は無意味、か……」
 舌打ちをしたヴォルクには実感があった。そもそもソードイドに攻撃呪文そのものが通じていない。現に、あれだけメラミを弾幕で撃たれたのにも拘らず、傷一つ付いていない。
 補助呪文をかけようにも、それはあの一閃を掻い潜って必殺の一撃を叩き込まなければならない。
 スクルトで守備力を高めていなければ一撃で屠られていたであろう一閃を抜け、確実に撃ち抜き、一撃で倒さなければならない。呪文が通じない以上、物理攻撃で叩き込まなければならない。
 しかし、ヴォルクは呪文の操り手において最高峰ではあるが、戦士という訳ではない。実質的に不可能なことだった。

 黒騎士はその場で剣を振り被り、大気すら薙ぎ払った一撃を放つ。斬撃は旋風を纏って、暴風となってヴォルクに襲い掛かる。大地を、森を粉砕した真空波はヴォルクを呑み込み、粉塵の中へと誘う。
「な、に―――!」
 地面に叩きつけられ、驚愕と共に呻くヴォルク。
 その隙すら与えずにソードイドは灰燼を振り切って、そのまま大地すら粉砕する斬撃を閃く。痛みを訴える瞬間にも、ヴォルクは詠唱を開始し、指先から放たれたメラゾーマの金色の火球が爆ぜて、敵を灼きつくさんと煉獄が顕現する。
 距離を保ちつつも、復元呪文ベホマで自身の傷を治癒し、ヴォルクが唇を噛む。

 地獄の炎すら引き裂いて、黒騎士の姿が現れる。
 やはり、攻撃呪文が通じていない。黒の甲冑に炎で焼け焦げた痕がうっすらとあるだけだった。
「無駄だ。力の差とは無慈悲なものだな――貴様ではこの私に敵わぬ」
 冷徹にソードイドから言い放たれる。黒騎士が切っ先を閃かさせた後、炎を踏み躙り、真っ直ぐに歩み寄る。

「退け。今、退けば私から追おうとはしない。もう一度だけ言おう。撤退しろ」
「弱者は見逃すってか。大した騎士道精神だ」
 ヴォルクが乾いた笑いを浮かべて、ソードイドを睨んでいた。
 攻撃呪文が必殺の一撃となっている以上、攻撃呪文が通じないソードイドにはヴォルクには決め手がなかった。それが事実だ。
 賢い選択をするのであれば、逃げるべきだろう。敵わぬ敵に挑んで果てる義理などない。それが賢明だ。

「何故、笑っていられる……?」
「さあて、どうしてかな。だがな。この俺とてな、賢者としての矜持ぐらいは持ち合わせているんでね…!」
 不遜ににやりと笑みを作りながら、ヴォルクが言い放つ。魔力を解き放ち、詠唱を開始する。
 このまま敵に情けを掛けられ、逃げ出したなど賢者として……否、ヴォルク自身の誇りにもとる行為だ。
 ヴォルクの心は折れてなどいない。屈したわけではない。なのに、何故敵に背を向けられようか。研ぎ澄ます。撃ち貫くために。魔力を阻む衣を貫通し、一撃を撃ち込む為に―――。

「俺はまだ全てを見せちゃいない……! こんな程度で俺を決め付けるんじゃねえ――ッ!!」
 叫び、ヴォルクが駆け抜ける。
 解き放たれた魔力は絶対零度の星となって煌めき、幾つもの氷の刃なってソードイドを四方から穿たんと襲い掛かる。マヒャドの刃を一閃の元に、剛剣が斬り払って極光の星達は大気へと還っていく。

 黒い輝きが舞い踊る。
 砕け散った氷の刃は、宝石のような煌めきを放ちながら虚空を彩っていた。黒い雪のように踊る無数の光芒。きらきらと熱を孕んだ光を乱反射しながら舞う極光の破片。
 それはまるで地上を彷徨う流星たちのような、戦場には場違いな、幻想的な輝きを醸し出していた。
 黒騎士が降り注ぐ氷結した、煌めきを斬り落とした瞬間。ヴォルクの姿は既にピオリムで加速した、緑の疾風と化して、ソードイドの懐へと飛び込んでいた。

「荒れ狂え爆炎よ…ッ! 虚空の闇を払う大いなる光よ、極光にて全ての愚者を断罪しろッ! イオナズン!!! この距離ならば……!」
 言霊に秘められた猛る魔力をそのままソードイドに叩き付けて、至近距離でヴォルクが解き放つ。
 閃光が迸り、轟音と共に灼熱が弾ける。極大爆炎呪文イオナズンは破壊と熱風を振り撒く。
 巻き上がる光が、ヴォルクとソードイドの二人の姿をも呑み込んで、燦然と煌めく。
 ただ破壊のためだけに生み出された黄金の太陽が大地に産声を上げる。全てを消滅させる黄金の爆炎が全てを包み込み、呑み込んでいく。大気中の全てが凝縮され、爆発したかのようだった。爆炎と灰燼だけが巻き上がり、全てを消滅させていった。

 全身が軋みを上げている。ただ立っているだけでも限界だった。光と爆風は緩やかに消えていき、立ち昇る硝煙だけが視界の全てだった。
「くっ……そが」
 ヴォルクがそれだけを吐き捨てて、残る身体の全ての力が消え去り、その場に倒れ伏した。

「見事だ。ダーマの賢者よ。貴様の一撃…確かにこの私に届いていたぞ……」
 崩れ落ちたヴォルクを見下ろして、ソードイドが静かに告げた。
 剣将の黒き甲冑には傷一つついていない。ただ焼けた痕のみが存在するだけだった。それをなぞり、硬く握り締めた。戦いは終わった。踵を返し、ソードイドが剣を収めた。


 皆の応急処置が一通り終わるが、所詮はその場凌ぎだ。アルトの治癒呪文の回復力では高が知れている。まだ皆が動けるようになるには時間がかかる。
 それでも諦めずに、もう一度治癒に取り掛かろうとした瞬間だった。
 遥か彼方で光が爆ぜ、一際強い爆風が森を騒がせる。けたたましく木々が擦れて耳障りな音を金で、灰色の粉塵がアルトの身体に吹き付けられた。暴風が過ぎ去るのと同時にざわめいた森に静寂が訪れる。
 爆発が収まったのを確認して、シエルにも皆にも大事はなく、一安心した瞬間だった。

「貴様が……アリアハンの勇者か」
 雷鳴のような厳かな声に、振り向くとそこにはさっきの黒騎士が佇んでいた。ぎり、と唇を噛んで魔将を睨む。剣を片手に握り締めて、仲間を背にするようにアルトが立ち塞がる。
「そう、……です!」
 重苦しく圧し掛かってくる威圧感に、声を搾り取るようにして、押し潰されまいアルトが告げる。黒騎士が静かに睥睨し、二人の間に生暖かい風が吹き抜けていく。

 きつく柄を握り、アルトが剣を抜き放つ。
 まだシエルたちは動けない。傷ついた身体を動かすのには時間が掛かるだろう。敵を見据えて、アルトが切っ先を、黒騎士へと向ける。
 まるで自分の意思を受け付けなくなったように、身体を自由にすることはできない。

 動けなかった。
 威圧感と重圧がそのまま、アルトの身体を射抜く。激しい怒りに満ちた剣気を纏ったソードイドの間合いは剣の結界だった。それは営利で、研ぎ澄まされていた。迂闊に飛び込もうものならば一閃の元に屠られる。
 その間合いの真っ只中で、アルトは対峙している。
 吹き抜ける風すら、刃と化したようだ。頬を撫でる風すら少年を切り裂かんとする刃のよう。ソードイドの姿に一分の隙すらなく、踏み込もうものならばむしろ……。

「何をしている……敵を前にして惑うな」
「……行きます!」
 黒騎士が告げた声に、アルトが顔を上げる。それに弾かれたように、アルトが駆ける。
 そうだ。まだ皆は傷が癒えておらず、動けない。戸惑う時間はなく、覚悟を背負い、アルトが駆け抜ける。踏み込み、振り上げ、感覚を研ぎ澄ます。敵の剣気を斬り裂くほど、鋭利に研ぎ澄ます。
 アルトが踏み込み、斬りかかる。短い剣戟を繰り出すがその全てを弾かれ、白の魔剣が煌めく。

 気が付けば、アルトが宙を舞っていた。打ち据えられていた。敵の振るう白い殺意を纏う剣で。
 受身と取りつつ、ふら付く足でアルトが踏み止まり、激しい土煙が上がる。そのまま、アルトが詠唱を開始し、ベギラマの閃光が地を這う。一瞬にして瞬き、激しく燃え上がった炎が黒騎士に襲い掛かる。
 しかし、炎は黒騎士に片手で容易く振り払われる。火の粉を散らして、簡単に撃ち払われた閃熱の余韻は瞬く間に消え去る。
 それに動揺する暇すらなく、その場でソードイドが刃を振り切り、暴風が巻き起こり、大気の悲鳴すら斬り裂いてアルトの全身を打ち据えた。
 いとも容易くアルトの身体は宙を舞い、衝撃で全身が軋みを上げていた。

「……児戯だな」
 ソードイドが倒れ伏したアルトの姿を見下ろして、言った。
 全身の力が緩やかに消え去るのを、アルトは感じていた。起き上がる力さえも、抜け落ちていく。
「見合うだけの力がなければ理想は夢想も同じだ。今のお前にはそれがない」
 ソードイドが静かに告げた。朦朧とする意識の中をその言葉だけが、反響していた。

 力。
 誰かを守れるだけの、力。
 もう二度と誰かを悲しませることのないようにと、願った。
 遠い、遠い日が思惟に蘇る。大切な誰かがそこに居て、それが当たり前だった日々。それを疑いようもなかった日々。それは唐突に失われた。失われた人たちはもう戻ってくることはない。
 理不尽はいつだって当然で、大切なモノを奪おうとする。
 目の前で、シエルたちが倒れている。ずっと、ずっと旅をしてきた人が傷付き、倒れている。また、こうやって誰かの命が失われるのを、ただ見ているだけで――。

 守らないと。
 戦わないと。
 一つの笑顔が失われる事は、多くの悲しみを呼ぶ。だから守らないと。戦わないと。
 今、戦わないと、彼らの笑顔が、命が消えてしまうから。衝動が突き動かしてくる。あの日の残滓、遠い光に消えた兄の姿。それを追いかけようとして、アルトは指を伸ばした。
 蒼穹を貫き、天高く翳したその手を掴むように、柔らかな指先が手を掴む。全身を駆け巡る光に、血潮がざわめいている。アルトは立ち上がり、その掌を掴み取る。
 裡から溢れ出る力が全身を満たし、痛みが消えていく。
 風が巻き起こっていた。それは爆発に近い風だった。
 その中心で燦然と輝き、闇を照らす光がアルトの掌から生まれていた。光が集う。輝きは更なる輝きを呼び集め、眩く束ね上げていく。
 嘶きは竜の咆哮の如く。光は闇を引き裂かんと煌めき、奔る。

 血潮を駆け巡り、全身を満たす光をアルトは高らかに掴み取って、それを振り下ろす。
 光が奔る。
 光が吼える。
 全てを焼き尽くす殲滅の雷が渦巻き迸る奔流が、闇もろとも黒騎士の姿を呑み込まんとしていた。

 それが、停止していた。
 極光と暴風を撒き散らしながら雷は、黒騎士に片手で受け止められ、食い止められていた。ソードイドは踏み止まり、受け止めた衝撃で、膨大な魔力が虚空で弾ける。弾け散った雷光は、悲鳴であった。
「これだけ大掛かりな術は長らくは持たん……」
 ソードイドは冷静であった。事実その通りだった。全身を満たす光が、アルトの四肢を食い破ってくる。血を逆流させ、肉を引き裂き、魔力と言う刃が身体を貫通し、身体の全てを切り裂いている。

 まだだ。
 アルトがその目で敵を見据えたまま、指先に力を込め、魔力を解き放ち続ける。荒れ狂う魔力は少年の思惟を凌駕し、浸蝕していく。肉を突き破る反動に堪えながらも、アルトはただ立ち向かい続ける。
 意識が持っていかれそうになる。気を抜けば、朦朧となる意識がここが限界だと訴えていた。息が詰まる。目が乾いていく。視界の全てが罅割れ、世界の全てが変異していく。
 それでも。
 それでも、と言い聞かせる。足に全ての力を込めて、その場に踏み止まり続ける。眼を開けてはいられないほどの強い風を拒み、それでも指に魔を解き放ち、足に力を込めて留まり続ける。

 澱んでいく。濁っていく。魔力がアルトという身体を食い破ろうとしている。
 全身を支配しようとする痛みに、喉から血を吐き出して、鮮血が風に踊る。まだだ、まだ……。
「僕は、ここまで、なの……?」
 諦めようとしない心と、壊れそうな身体がせめぎ合う。アルトの身体の自由は最早なかった。

 裂帛の気合と共に、ソードイドが破壊の剣を振り切り、刃と闇が渾然一体となった一撃が解き放たれ、雷を真っ二つに切り裂いた。
 地面に吸い寄せられるようにして、アルトの身体が崩れ落ちる。
「……まだ、僕は……」
 指が無意識の内に、立ち上がろうともがくがアルトの身体は立ち上がることは無かった。

「血反吐を吐くまで、魔力を解放し続けたか――仲間を守るために」
 吹き荒れる風の向こう、灰燼の向こうに黒騎士の影が映る。
 黒騎士はそのまま立ち尽くし、勇者の姿を見下ろしていた。止めを刺すつもりか。黒騎士からすれば、それは当然の事とも言えた。

「貴様のその覚悟……応えよう」
「な……ぜ―――」
「このソードイド、無益な殺生は好まぬ。まして此度の戦いは私が望まぬ戦いでもある……」
 剣を納め、黒騎士が踵を返した。
 黒騎士の姿が強い風の向こうに、消えていく。それに追い縋ろうとはせずに、アルトはただ見ているだけしか出来なかった。自由が聞かなくなった意識は、緩やかに闇に引きずり込まれていく。

「貴様が魔王様に挑むというのであれば、剣を交える機会もこよう。その時を楽しみにしているぞ……」
 遠い風に、黒騎士の姿が遠退いていった。
 空はもう堕ちて来そうな重々しさは消えていた。温い風がアルトの頬を撫でて、視界に映る無残な木々の残骸をぼんやりと見つめ、そこに倒れ伏した仲間達を見つめる。
 みんな、傷を負って、気絶しているけれど生きている。生きているのだ。安堵の気持ちが胸に満ちる。よかったと、頬に触れる冷たい指先に気がつき、朦朧と視線を動かす。紅い髪の小柄な少女の影が微笑んでいた。

「よく頑張ったな。お前は生きている。みんなも生きている。それも一つの勝利だよ。悔やむ必要なんてない」
 少女が何かを詠唱し、淡い穏やかな光が皆を包み込んだ。
「今はゆっくりおやすみ……」
 囁き掛ける少女の穏やかな声に、ゆっくりとアルトの意識は消失していった。




 闇が蠢く。濃厚な真紅の闇が蠢き、虚空に渦巻き蠢動を続けている。
「出過ぎた真似をしてしまい、申し訳在りませんでした」
 スカイドラゴンが傅き、黒騎士を見上げていた。それに振り向き、冷厳とした声で応える。
「我ら四魔将はそれぞれの領域は不可侵が暗黙の掟、それを乱す者は如何なる事情があろうとも許されぬ……だが、過ぎたことを言っても仕方があるまい。咎は私が引き受けよう」
「しっ、しかし……」
「よい。貴様のその勇猛さ、頼りにしている。今は傷を癒すのだ。スカイドラゴンよ」
 ありがとうございます、とスカイドラゴンが感謝を述べ、去っていく。

「ソードイド様……」
 入れ替わりに響いた、粉雪のような繊細で可憐な声に振り向くことはなかった。構わず彼女も続けた。
「何故に、勇者たちを見逃したのでございましょうか」
「何が言いたい。スノウよ……」
 振り向けば、美しい女がそこにいた。透き通るような蒼銀の髪に、観る者の視線を例外なく釘付けにしそうな、整った女性。硝子人形のような凍て付いた美しさを纏い、額には人ならざることを証明するかに、左右対称にぴんと伸びた角が生え揃っていた。
 憂いを帯びた眼差しで、スノウと呼ばれた女性が見ていた。

「スノウよ…貴様に言われるまでもない。我が剣は魔王バラモス様に捧げた――惑いなど、既に捨て去った」
 冷厳と、ソードイドが兜の奥底の双眸を、魔族の少女に向ける。
「心得て……おります」
 スノウが目を細めて、憂いと悲しみを込めた遠い眼差しのまま、己が主を見つめていた。




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